虹裏img歴史資料館 - imgの文化を学ぶ

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  • 私は変... のスレッド詳細

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    22/07/10(日)02:17:20 No.947456085

    私は変わりつつある、のかも知れない。二年目始まりから起算する、栄光の三冠に起因する連戦。狂しくなるほどに抱いた、苛烈に激するあの情念も。冬と春を越えてしまえば、次第に俄かに薄れ始める。しかし薄れゆけば濃くなるものもある。薄まる、というより。昇華されているのだろう、私と私たちのなかで。  疑念はやがて確信に移り行き、確信は自覚へと変化を遂げた。その称賛なのか、これまでの代わりとばかりになのか。深い実情は分からないが、私の知る様々な人々が、私が未知だと信じていた感情の群れを従えて、私のこれまでを、止まっていたのだろう時を揺り動かし始めた。  足るを知る、なんて言葉が脳裏をよぎる。足されることを拒んでいた私にとっては、何よりも真芯を突いた、本当にいい言葉だと思う。私は足されることを知り始めている。勿論好ましいことばかりではないけれど、知ることはゆくゆくのすべてに関連付けられるものだから。まあ本来の意味とは違うけれど、良い言葉なのは間違いない。

    1 22/07/10(日)02:17:50 No.947456213

     ふう、と息を吐き、窓ガラスの向こう、宵闇の空に目をやる。今日は月が出ている。反射と偏光を繰り返しここまで届いた星の光は、紺に滲んで青白くぼやけている。新月は遠い。あの子は胸のうちに仕舞われている。瞑目し、心の中に祈りを捧げ、また少し目を開ける。覚えたての日常が、網膜の外側で像を結ぶ。やっぱり、夜のことは。どうやっても嫌いにはなれない、そう思う。  三年目、宝塚の終わり、夏合宿のごく手前。ああ、やはり。私は変わりつつあるのだろう。天体に想いを馳せるのとはまた別で、私は夜という世界そのものを好きになり始めている。特に今のような、お風呂上りに好きな味のアイスキャンデーを頬張っていられるような、ある種普遍的な夜の時間が。  小洒落た曲も何も掛かっていないかわりに、余暇を楽しむ少女たちで賑わうラウンジの。誰も邪魔されぬだろう片隅、窓に面したボックス席で。やわらかなソファーに腰掛け、落ち着きのある樫色のテーブルを前に。前述通りの好きなポーズ、お風呂でゆっくり汗を洗い流したあと、湯冷めしないうちに購買で買ったソーダ味の棒アイスを口にしながら。

    2 22/07/10(日)02:18:11 No.947456303

    冷房の利いた心地の良い空間で私は、夜空にちなんだ本を読んでいる。トレーニングを終えたあとは行水のようにシャワーを済まし、設えられた布団で眠るだけの毎日からこうまで変わるなんて。人は変われる生き物なのだと改めて理解する。  丸く束ねた髪の端、うなじのあたりから熱が抜けていく感覚がまだ、ある。不快指数の上がらない汗が、星が流れるようにすっと横髪の裏側辺りを伝ってやがて離れる。首に掛けたままのフェイスタオルが、水玉の受け皿になる。微弱な涼しさが欲しい。暑さを冷えで対消滅させるために、犬歯の近くにアイスを持っていき、思うさま頬張る。しゃくり、しゃくしゃく、さりさりごくん。ふう、相変わらず美味しい。美味しいからか分からないけれど、開いたページは止まったままで一向に進まない。どうやら本を読むためには、まず手にしたアイスを食べてしまわないといけないようだ。こんなもの、幼い頃から知っているはずのことなのに。どうして毎回忘れてしまうのだろう。でもまあ疑問に矢印を向けたところで。所詮下らない悩み事だから、笑うだけで済ませられるような理由しか出てきはしないだろうけれど。 「――ベさん、アヤベさん……!」

    3 22/07/10(日)02:18:42 No.947456412

     文字列を文章として理解するために本に視線を落とす。星座の話を織り込んだ連作小説。それもあと二、三十と捲れば終わるところまで来てしまった。読み終わらせるのを躊躇いたい。水色の氷菓を木の棒一本へと変えるために頑張っていれば、なにやら遠くから安穏を容易く崩せるような圧力が近づいて来ているように感じた。 「気のせいよね……?」  眉間に軽く力がこもる。虫の知らせ、とかでないと良いけれども。嫌な予感は当たることが多いから、少しだけ咀嚼するスピードを上げる。 「――ヤベさん、アヤベさん、アヤベさあん……!」 「……ん?」  ああ、眉間に間違いなくしわが寄った。幻聴だと思いたい、けれど。どうにも覚えがある声が、うなりを上げて聞こえて来ている気がする、いや間違いなく来ている、とりあえずまだ遠くから。仕方ない、もはや逃げることも叶わないのだし。何があっても対応できるように、この両手を空けておこう。しゃくしゃくしゃく、よし食べきっ……うっ、やってしまった。額の奥めがけて、きいん。痛烈な刺激が走り抜ける。一気食いの罰が当たった私は、抵抗も出来ず目を瞑る。 「アヤベさん、アヤベさん、アヤベさーん!」

    4 22/07/10(日)02:19:12 No.947456529

     知っての通りだけどウマ娘は恐ろしく速い。瞬きする刹那の秒数で、彼我との距離を詰め切れる。冷却のための代償をこめかみを押さえることで無理矢理払い切り、ようやく痛みが引いたそのタイミングで、目を明ければそこには。 「やっと会えました、アヤベさあん!」  酔ってるのかしら、この子。私たち未成年のはずだけど。というか私にダイビングヘッドでもする気なの、この勢いって。空席の位置、私の隣にでも滑り込もうとする彼女から、なるたけ身体を離すために。開いた本を畳み、思いっきり窓側へ身体を寄せて。何というか私の想像通り、目下に飛び込んできたモノトーンの頭を軽く小突く。 「いたあいっ! 何するんですかアヤベさんーっ!」 「殺す気?」 「もうっ! そんなわけないじゃないですか!」 「はいはい。少しは落ち着きなさい」 「あっ、はいっ! ええと、それでですね……!」 「全然落ち着いてないじゃない。まあいいわ、何の用?」 「あのっ、一緒に思い出、作りませんか?!」 「……は、あ?」

    5 22/07/10(日)02:19:40 No.947456648

     建前を口にするよりも早く、本音がぽろり、さらりと漏れ出した。思い出、とは。つまりどういうことなのか。のんびりくつろいでいた私に向かって彼女は、ジルバでも踊っているかのような瞳で訴えかけてきた。そんなだからなおさら意味が良く分からない。 「ええっと……もう一度言って貰える?」 「はいっ! 思い出つくりに行きましょう、一緒に!」  あまりに突拍子もない発言が繰り返され、疑問符ばかりが脳内に浮かぶ。依然穏やかなざわめきの中、何とか理解を深めるために。私はこの子の不思議を読み解こうと試みる。 「えー、なになに、なにごとーっ?」 「なんかねー、スぺちゃんがねえ……」 「わっ、思い出ーっ?! それってまさか……」 「……まさか、かもねーっ!」  が、しかし。ここは広い寮のいち設備に過ぎないエリア。一般に開放された場所だから、防音性なんてあるわけもない。しかも、晩ご飯あとお湯あみも終わったようなこの余暇において、寮のラウンジは野次ウマの量は随一の場所。そのうえ目の前の彼女、スペシャルウィークさんは非常に声が大きい。

    6 22/07/10(日)02:20:25 No.947456833

    当たり前の話だが、ひそやかに語られる物に比べ、はきはき伝わる言葉たちは周囲の耳目を集めてしまう。分かったから落ち着きなさいとその都度言ってきたが、やっぱりダメだ。興奮すると加減を知らないのだ、この子は未だに。 「……ほら、来なさい」 「えっ、わあーっ!」  最初に叫ばれたときこそ微かだったざわめきだが、数分としないうちにどよめきへと姿を変えている。このままだと友……深い知り合いに見られそうだし、もし見られたら相当のあいだ突かれそうで嫌だ。騒ぎが大きくなりすぎる前に、彼女の手を引きラウンジを出る。スウェットのポケットに文庫本を突っ込み、既にからっぽの棒をゴミ箱に放り込んでまっすぐに外を目指す、気持ち急ぎ足で。普段はちゃんとスニーカーかパンプスを履いているけど、生憎いまはお風呂上り。服装はラフそのものでTシャツにスウェット、裸足にクロックスを履いているものだから、子供っぽい感触と足音が床の方から伝わってきてしまう。なんというかほんの少し、恥ずかしい。 「早く」 「もーっ、強引ですよ!」

    7 22/07/10(日)02:21:14 No.947457031

     尻尾をぶんぶんと振るわせながら、小走りのスピードに付いてくる。口と雰囲気ではぷんすかしているが、本気で怒っていないのは流石に明白だ。 「こうでもしないとどうしようもなかったわよ」 「他にもやりようありましたってぜったいにーっ!」 「そうね。あなたがあんなふうに飛び込んで来なければ、ね」  私が溜息を吐くとこの子はよくむくれる。今日もそのご多分に漏れず、怒りの発散とばかりに無抵抗の脇腹を突っついてきた。こそばゆい、でもそれだけだ。 「そんなことしたってあなたのせいなのは変わらないわよ」 「でもぉー……ん、あれっ、もしかしてアヤベさんお風呂上がりですか?」 「そんなもの一目瞭然でしょ、というかあなたに一言、いい?」 「えと、はい?」 「服装。ちゃんと履いてるの、それ」  彼女の恰好は丈の長めな一体型の薄緑色したワンピース。かなり薄手のそれは、夜の世界だから許されるものだ。肉体を隠す不透明性は蛍光灯の光にすら負けるほどに乏しく、肉感的なシルエットを露骨に浮かび上がらせてしまっている。 「それは……そのお……!」 「女の園とはいえ、せめて一枚羽織るぐらいしなさい」

    8 22/07/10(日)02:22:24 No.947457308

    「おかあちゃんみたいなこと言わないでくださいよ、履いてますからね、ほらっ!」 「見せないでいいから。大体、見てないわよ。私」 「ちゃんとハーフパンツ履いてるのに……」 「それは分かったから。でもね、うろつく格好じゃないわよ、それ」 「アヤベさんに言われたくないです、ほとんど肌着じゃないですか」  明言された途端、ぼおっと顔があつくなった。指摘されてようやく恥ずかしがるなんて、本当に全くどうしようもない。あなたも、私も。どうやら同じ穴の狢のようだ。 「………………私はお風呂上がりだからいいのよ」 「言い訳になってませんよ、それ?」 「うるさいわね」  恥ずかしさは人を視野狭窄にさせる。私は彼女の手を引いたまま廊下を突き進みに進んで、寮の外へと転ぶようにして出た。直後、思わず顔をしかめる。空調を効かすことのできない外には、抑えようのない熱気が広がっていた。身体を芯から温もらせる、四十度オーバーの熱量とは全く別。産湯にも満たない温度の空気たちは、肌に浸透しきれないまま、不快指数だけをひたすらに増加させる。 「あぅ~……暑いですねぇ……」 「……本当にね」 「もう夜なのになあ……」

    9 22/07/10(日)02:22:45 No.947457394

    「そうね……プールにでも浸かりながら生活できたら、ぷかぷかできて冷たくて……楽なのにね」 「……んふくっ」 「……何?」 「いえ、なんだか面白くて。アヤベさんがそんなこと言うなんて思わなかったから」  何の気なしに呟いたことに対して、この子はくすくす微笑む。そんな姿とは裏腹に私はきょとんとしてしまった。 「……笑うようなことかしら」 「あ、いやっ、べ、別にそんなことは……んふふっ……ごめんなさい、ふふっ……」  夢描くような理想を口にしただけなのに、そこまで面白がるだなんて。心外だ。アスリートのくせして無駄に肉感のある頬をつまみ、ぐっと捻り上げてやる。 「あいたーっ! おこんないでえ……!」 「別に怒ってないわ」 「や、やっ、ごえんなあい、ごへんなあいーっ!」 「私だってたまには言うわよ」 「いたい、いたい! 初めて聞きまひたよおっ?!」 「たまに、なんて。あなたに向けられるものばかりじゃないわ」 「じゃあ私にとってははじめて、ですね!?」

    10 22/07/10(日)02:23:25 No.947457577

     そろそろ離してと懇願されたし、ある程度溜飲も下がったので手を離した。初めてと告げられたとき、ふわふわするものが心の奥に留め置かれた気がした。いや、決して初めてという単語に不思議な感傷を抱いたわけではないはずだ。そのことを確かめる為に、ふわふわした何かを傍に置くだけに留めて、私は努めて冷静に言葉を紡ぐ。 「あなたって本当にポジティブよね……」 「あっ、アヤベさんが褒めてくれましたっ! やったーっ!」  褒めてないわよ、喉元までせり上がってきた文句を力づくで飲み下し、呑気に喜ぶ彼女を引き連れ、門のそばまで歩みを進める。 「おや、ポニーちゃんたち。もしも今から出るのなら。申請書のない君たちに特別をあげようか。月が雲に隠れるまで、今日はそれが門限だよ」  玄関近くで涼んでいた寮長が、そんなことをさらりと口にする。なにやら職権乱用な気もするが、今はその優しさに甘えておこう。軽い会釈を交わし、この子の手を取ったまま、門の外へと足を踏み出す。月は見えている。夜空に雲は一つもなかった。 「なんだべかなあ、なんか悪いことしてる気分……」 「……まあ、分からないでもないわ。とりあえず少し歩きましょう?」

    11 22/07/10(日)02:23:54 No.947457705

     行くあても意味もない散歩に、何某かの意味を持たせるために。なるべく自然の多い道を選んで歩いていく。先程とは違って、私の隣にはこの子がいる。手はもう離している、ずっと繋いだままだと必要以上に汗をかいてしまう。 「この遊歩道も、夜だと雰囲気変わりますねえ……」 「走ったり歩いたり。散々してるのにね」 「でもこの雰囲気、私、好きです」 「そうね、私も。嫌いじゃない」  言葉少なに道を歩くと、丁度良い場所にベンチがあった。何を言うでもなく自然と腰掛け、私に追従するように彼女が隣に来た。座って、ひと息吐いて、背もたれに軽く寄りかかり、鼻先を空に近づける。 「ねえ、アヤベさん」  夜の端を見つめる。終端まで紺が詰め寄るそこには、透明性のひどく高い、どこか清潔で近づきがたい、眩く青く光る星たちがある。変わらず、月が傍らにいる。フォーマルハウトはまだ遠い。五千八百の絶対度には及ばない星辰の熱には、私たちに落ちる陰たちを剥がす力など在りはしない。 「何かしら、スペシャルウィークさん」

    12 22/07/10(日)02:24:14 No.947457785

     しかし、だからこそ。朝にも昼にも映らないものが垣間見える。遥か遠くの街灯と、遠く遠い月と星で作られた、この頼りない明かりの下にいま。私が知っているはず、なのに。明らかに私の知らない顔が隣にいる、この場所は。 「私たち、どこまで行けるんでしょうか」  伝わることも、感じられぬものも。この生きたプラネタリウムの下では、現実味が薄いように感じられて仕方がなくて。必要以上に私たちを感傷的にさせてしまう。 「さあ。生きたいところまでは行けるわよ。絶対に」  つぶやくような問いかけに、微笑むような三角配点の答えを返せば。ただ見上げただけの星空が、拭い去ることも出来ぬまま、心底深くに刻まれていく。  心地の良い静寂だった。二言、三言を交わしただけで、あとに何か会話はなかった。群青の楽団が奏でる月と星のシンフォニーに心を委ねた。百を数えるのも忘れてしまうくらいに見惚れて、夢想して、息を吐くついでに何か喋ろうとしたとき。アンニュイな表情を浮かべた彼女に言葉を紡ぐのを遮られた。 「アヤベさん」 「何?」 「こっち、向いてくれますか?」

    13 22/07/10(日)02:24:36 No.947457855

     問いかけられた私は、緩やかな速度で彼女の方へと振り向いた、そのとき。いともたやすく、あまりにも滑らかに、人肌する想いが私の唇に、ささやかに、憂い気に、貼り付いてすぐ、寂しそうに離れた。 「えへ……」 「あなた、そういう子、だったの?」  ためらいがちに訊ねた私の、横髪を指で優しくかき上げながら、ささやく。 「アヤベさんじゃなかったら、しませんもん」  ああ、近づいた顔から発散される熱で理解する。 「照れてるの?」 「そりゃあ……まあ……」  この子はぽりぽりと頬を掻きながら苦笑する。それから、唇を丸め込むようにぺろりと舌を動かし、数回瞬きをしたあとに。口角をあからさまに上げて、にたつくような表情を浮かべた。 「なんか、あまいですね?」 「やめて、恥ずかしいから……」 「ん~……あ、ソーダだ!」 「いい加減にしないと、はたくわ」 「んへへ……調子に乗り過ぎました、ごめんなさい。でも……」 「でも……?」

    14 22/07/10(日)02:25:14 No.947457975

    「いい思い出には、なったと思いませんか?」 「……バカ」 「あーっ! バカはひどいですよお!」 「バカはバカだもの。バカ」  この子はいつも現実に引き戻してくる、別に嫌ではないけれど。ひとしきり言い合えば先程のように静寂が訪れた。静けさの中で私は、まさに今刻まれた新しい思い出を思い返す。薬指の先、薄桃色の部分に終わりが薫るようになってようやく、私は私自身を理解し始め、また許してもいいのかも知れないと思い始めているのかも、知れない。  青に満ちる夜の空気を割くように左手を宙に。舞わして、自分の温もりに届くよう握り込む。うん、やはり、そう。新しい私も生きている。共に生きてきた私も変わらず生きている。生きているから夏を好きになる。生きていたいからこそ私は、変わりつつもここに在れる。空を見上げる。月が見える。透明でない月の向こうを眺める。 「ねえ」  ねえ、私に生きる私の半身。あなたはどう思う? 「なんですか?」 「きっと……」  そう、きっと。うん、そうね。 「きっと?」  このままでも良いのよね、きっと。

    15 22/07/10(日)02:25:53 No.947458129

    「ふふ……なんでもない。忘れ、て……」  ああ、何故だろう。そう思うと、不思議と。 「えっ、アヤベさん……? どこか痛いんですか……?」  魂そのものから溢れてくるものを留めきれなかった。 「ううん、分からない。でも、きっと。許されている気がするから、今は」  肌に貼られた化粧水と乳液の膜を滑らかに溶かして、決して顎まで伝うことなく、頬骨の端から離れてゆく、涙。夏の空気に触れた瞬間、急速に冷めつつある熱い雫。目を瞑らずとも見えないものが、この子の薬指に掬われて下睫毛のさらに下を湿らせながら、この子の甘皮へと取り込まれていく。 「いっぱい、泣いてもいいんですよ」 「いやよ、そんなの」 「じゃ、泣かないで……ください」  無理よと口にしかけたとき、ごく自然に、あまりにも普通のことのように。私の唇がまたこの子のものになった。小鳥がさえずるような、ささやかな触れ合いが続く。アイスの味がまだ残っているだろう唇を、この子にぱちぱちと食まれるたび、正体不明の温もりが心臓の少し下あたりに溜まっていく。  ああ、これが思い出、なのだろうか。

    16 22/07/10(日)02:26:22 No.947458244

     夏より熱く、水より重たいもの。そう仮定したとき、ふと思う。思い出がキス、だなんて。こんなこと未来永劫誰にだって伝えられやしない。でも、秘め事のままにもきっとなれやしない。だって私がいる場所は外で、天に広がるのはこの星空なのだから。何もかも白日の下に晒されているのと一緒なのだ。 「アヤベさん……」  人との触れ合いは往々にして熱い。穏やかで落ち着けるものですら、相当の熱量を秘めている。スペシャルウィークさんは燃えるように熱い。ああ、熱さは感傷だ。感傷が私の心を溶かしていく。強烈な熱を帯びた一瞬だけの接触が続けば続くほど、イフストーリーになり得るほどの、ありもしない『もしも』を私に想起させていく。 「もし、私が……」  熱さに満ちた身体のしくみをしていたなら、ここからもう少し何か発展していたのだろうか。少なくとも普段よりも幾分か身体が熱くて、夜気が涼しく感じられたのは。刻み込まれた思い出によるものに違いない。 「星に、なれたら、って。思ってた……」  捧げるための祭儀場で涙すればするほど、星の光は強まっていく。

    17 22/07/10(日)02:26:59 No.947458397

    あの子を理解しようとして、この子も理解しようとする都度、スコルピオよりも苛烈な赤光に焼かれて、私は立ち行かなくなる。  宙を舞っていた右手が空白の夜を掴み取る。熱いこの子の生きている波動を感じたくて、大それたことと判っていてなお。背中に白い内側の肌を添わせて、少しだけ、少しだけ、私に近づけてしまう。 「少し、だけ……こう、させて……」 「……はいっ」 「ありがとう……」  伝わる、拍動がする、温もりを吸う私の身体がいま、生きている心地を二つ分感じ取っていく。 「笑顔になれるまで、ずっと。居ますよ」  そばに居てくれる、ただそれだけのことが。こんなにも嬉しいだなんて。今まで知りもしなかった。どこか寄りかかるように、彼女の頬に右の目蓋を寄り添わせて、温もるこの子の頬に悲しみと喜びを吸ってもらう。 「ああ……」  なんて、温かい。夏の熱気がどこかへ消し飛んだかのようにすら思える。叶うならもう少しこうしていたい、けれどこれ以上は。左目だけで見た煌めく星空に、夢色したあの星を探す。月が見えている。月白、眩しいけれど。少しだけ呆れた顔で、見ている気が不思議とした。

    18 22/07/10(日)02:27:53 No.947458554

    身体を預けるのをやめて、スペシャルウィークさんの瞳を見つめた。どうしてか分からないけれど、幸せそうな色が見えた。 「えへへ。元気になりましたか?」 「……うん。そうね、ありがとう」 「思い出、作れちゃいましたね、でへへ……」 「あなたから照れないでよ、もう」 「でもぉ……照れますよ、やっぱり」  彼女は嬉しそうにはにかんで、暑い暑いと言い訳しながらワンピースの胸元をはためかす。 「うー……暑いなあ……」 「そうね、不思議なくらいに」  星空をちらり見やれば、星の光が不思議と増していた。ああ、そうね。年上の私が貰ってばかりだなんて恰好が付かない。なら、私から返せるものはあるかしら。 「ねえ」  ふふ、そうね。あるかしら、じゃなく。渡さなきゃいけない。恥ずかしがるよりも先に、想いを伝えなきゃ、いけない。 「スペシャルウィークさん」  だから同じだけの思い出を渡そう。そう思うと、待っていたとでも言わんばかりに。身体は勝手に動いた。

    19 22/07/10(日)02:28:31 No.947458665

     私から捧ぐ一回目の思い出に、名前が付けられていく。触れ合ったからふわふわしているのか、この子がふわふわの塊なのか、その判別は付かないけれど。そう、たぶん、きっと。長くもないけれど、貰っただけの思い出を十分に返すことが出来たんじゃないかと、そう思えた。 「わ、あ……!」 「おやすみ、また明日」  ベンチから腰を上げ、半ば放心している彼女に背を向けて、私は寮の方へと踵を返す。全く、我ながらバカバカしい。妹に夢で叱責されかねない。オペラオーさんじゃあるまいに。気障ったらしい台詞なんて、言えるわけもないっていうのに。同じ量の気持ちを返すために、同じだけの熱量を齎せる力を用いて、用いたくせして恥で頬を染めていたら、まったく本末転倒だ。 「ちょっ、アヤベさん!」 「何?」 「待ってくださいよーっ!」  くすり、おかしさが口元からこぼれて。その心地よさに瞼が閉じる。 「待たない」  私は変わりつつある。  これまでに知らなかった、知ることをしなかった物たちを知り始めたから。

    20 22/07/10(日)02:28:58 [おわり] No.947458751

    「月が陰る前に戻らないと」  私は夢すら見つつある。  形質不明な自分の想いに対して、贖うためだけの戦いをする必要がなくなり始めたから。 「ほら、早く」  ひとは変わる、ひとは変わって行く。夏の大三角が照らし出すこの地表で。劇的なことなどなく、それとなくゆるやかな速度で、私たちを繋ぐものを切ることもなく、ただひたすらに確実に変化を遂げていく。私はいま、どことなく傲慢になりつつある。でもそれはきっと悪いことではない。欲を覚えつつある私だけど、悼みを忘れたわけでも、自己の本質を見失ったわけでもない。これが成長なんだ。多分、きっと、恐らく、よく分からないけれど、確実に。 「帰るわよ、スペシャルウィークさん」  どんな明日が来たとしても関係なく、私はひたすらに明日を望んで歩いていく。 「はいっ、アヤベさん!」  支えてくれるひとたちに、手を差し伸べて、がんばる。また明日も、新しい夜をここで待つために。思い出をもっと増やせるように。うん、しっかりと、歩くから。この、脚で。

    21 22/07/10(日)02:30:08 No.947458970

    アヤスペありがたい…

    22 22/07/10(日)02:30:51 No.947459111

    あれ終わったんじゃ…?

    23 22/07/10(日)02:31:05 [s] No.947459145

    幻覚の返礼品なんだけど興が乗り過ぎた キスさせるだけの予定が長くなり過ぎた 申し訳…

    24 22/07/10(日)02:32:30 [s] No.947459373

    >あれ終わったんじゃ…? あの伝道師と私は別です別なんです!早めのお中元受け取ってくれーっ!

    25 22/07/10(日)02:39:42 No.947460521

    スペちゃんとの関わりでアヤベさんの心が氷解しつつあるのがすごく…すごいです…

    26 22/07/10(日)02:59:22 No.947463266

    いいもの読ませてもらった…

    27 22/07/10(日)03:11:02 No.947464857

    この時間のアヤスペは外で読みたくなるな…

    28 22/07/10(日)03:15:22 No.947465499

    > 問いかけられた私は、緩やかな速度で彼女の方へと振り向いた、そのとき。いともたやすく、あまりにも滑らかに、人肌する想いが私の唇に、ささやかに、憂い気に、貼り付いてすぐ、寂しそうに離れた。 >「えへ……」 >「あなた、そういう子、だったの?」

    29 22/07/10(日)03:19:31 No.947466068

    挿絵の人!挿絵の人じゃないか!

    30 22/07/10(日)03:20:17 [s] No.947466203

    ウワーッ!ありがたい…ありがたい… ニヤニヤする…

    31 22/07/10(日)03:27:18 No.947467114

    やめてくれないか深夜に夢に出そうないいものをぶつけてくるのは!

    32 22/07/10(日)03:45:42 No.947468761

    いいね…

    33 22/07/10(日)04:22:05 No.947471141

    うわーうわーすっごくいい… フォーマルハウトとかスコルピオとか星の名前出てくるの好き…最後の成長のくだりも好き…いつもの人といいアヤスペ派閥のレベル高くて引きずり込まれちゃう

    34 22/07/10(日)05:31:41 No.947474615

    早起きしたら良いものを見れたぜ