ここでは虹裏imgのかなり古い過去ログを閲覧することができます。
22/01/20(木)01:37:47 No.888609383
彼女を担当するようになって以来、目覚めのローズヒップティーを飲みながら音楽を掛けるのが習慣になった。 ローズヒップティーは爽やかな香りと酸味で気付けによく、カフェインが含まれていないため空腹の体に優しい。こうした知識は彼女からの受け売りである。 音楽はラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を掛ける。 脚を痛めて療養中の彼女に何かしたいことはないか尋ねてみると、彼女は遠慮がちにピアノのコンサートに行きたいと答えた。 なんでも外国の高名なピアニストが来日公演をするとのことで、その時のアンコール曲がこれだった。 正直クラシック音楽とは縁がなく、コンサート中に眠ってしまわないか心配だったが、いざ始まるといつしか音楽に心を奪われてしまい、しまいには涙を流していた。 すべての演目が終わって客席に再び照明が点いた時、隣に座っている彼女に涙を見られないように、鞄の中のスマートフォンを探るふりをして目線を背けようとしたのを昨日のことのように覚えている。
1 22/01/20(木)01:38:08 No.888609425
出掛けにはサンタ・マリア・ノヴェッラのオーデコロンを付ける。 これは彼女にとって最初の―そして最後になってしまった―重賞・高松宮杯優勝の際、日頃の感謝のしるしとして贈ってくれた。 かねて謝礼は不要だと言っていたものの、彼女の両親と祖母からの言いつけでもあるとのことで、受け取らないわけにはいかなかった。 私がふとした機会にシトラスの香りが好きだと言ったのを覚えていて、彼女はこの香水を選んでくれたのだった。
2 22/01/20(木)01:38:25 No.888609474
玄関のドアを開けると、重く黒ずんだ色合いの雲が全天を覆っていた。 今日はトゥインクル・シリーズを終えた彼女…メジロアルダンの最後の挨拶の日だった。 トゥインクル・シリーズを卒業したウマ娘の進路は、ドリーム・シリーズへの挑戦と引退に分かれるが、彼女が選んだ道は後者だった。 シニア級で出場した秋の天皇賞では好走したもののアタマ差の2着。 続く有マ記念では2番人気に推されながら、ゴール前で燃え尽きてしまったかのような失速で10着と大敗。 彼女にとって初めて入着を逃す結果であったが、身体が既に限界を迎えていることはトレーナーである私……そして何より本人には明らかであった。 また、幸いと言ってよいかは分からないが、メジロ家の後進たちの活躍が彼女の引退への決意を後押しした。 昨年の菊花賞を勝ち取ったメジロマックイーン。そしてクラシック級での戴冠は惜しくも逃したものの、有マ記念で2着と実力を示したメジロライアン。 この2人の活躍を、彼女は我が事のように明るい顔で話すようになっていた。
3 22/01/20(木)01:38:43 No.888609526
彼女は午前10時にトレーナー室に来ることになっていた。 それまでの時間をファイルや書類の整理で潰すことにした。 うず高く積みあがったノートの山は、彼女と歩んだ道の険しさを示していた。 彼女はいつも2つの重荷を背負いながら走っていた。一つは生まれ持った蒲柳の質、もう一つは名門メジロ家の名。 病弱な体質でありながらのGII高松宮杯優勝、GIダービー及び天皇賞・秋2着という成績は確かに輝かしいものと言えるだろう。 トレセンの生徒のほとんどは、重賞レースへの出走すら叶わないまま卒業を迎えるのである。 しかし、トリプルティアラを達成した彼女の姉メジロラモーヌや、天皇賞の盾を持ち帰ったメジロ家の歴代の偉業と比べてしまうと、今一つ物寂しいことは否めない。 あるいは、この3年間に彼女が強いられた苦難の数々と比べてればどうだろうか…。 これまでに幾度となく脳裏をよぎっては必死で打ち消してきた思いがちらつき、胸を締め付ける。 もし私以外のトレーナーだったらどうだったのだろう…。もっと実績と経験のあるトレーナーだったら…。 結局、私は彼女をいたずらに苦しめるだけだったのではないか…。
4 22/01/20(木)01:39:07 No.888609591
小さく3回ノックの音がした。 時刻は午前9時54分37秒。メジロアルダンだった。 ドア越しに入室するよう言うと、彼女は「失礼いたします。」と言って一礼した。これほど美しく礼をする人を私は他に知らない。 一際真心がこもって美しい。 私は、椅子に掛けてお茶を飲むよう勧めた。トレーナー室に粗末ながら何組かのティーセットとローズマリーの茶葉があった。 彼女は一度は遠慮してみせたが、「まあ、今日くらい私に煎れさせてよ。」と言うと、「でしたら、お言葉に甘えて頂きますわ。」と席に着いてくれた。 そうしてティーカップに一口つけた後、彼女は、控えめながら喜びをにじませた声で、今朝、志望校から正式な推薦合格の連絡を受けたことを報告してくれた。
5 22/01/20(木)01:39:22 No.888609637
彼女はこれから医学の道を進むことになる。 彼女は競技生活を通じて、ウマ娘向けのスポーツドクターになることを志すようになっていた。 故障のために道半ばにしてレース場を去るウマ娘を一人でも減らしたい…やがては途上国でスポーツ医学の普及活動に携わりたい…そんな夢も話してくれた。 トゥインクル・シリーズと並行しての受験勉強は並大抵のことではなかっただろう。しかし、彼女はその苦労をおくびにも出さず本当によく頑張っていた。 彼女の学科担任教員からは間違いなく志望校に推薦合格できると聞いていた。 私は語彙を尽くして彼女を讃えた。彼女は謙遜がちに含羞んでいたが、私としてはどれほど賛辞を並べても足りないくらいだと思っていた。 しかし、その思いとは裏腹に、胸の奥に日の当たらぬ虚穴に溜まった水のような、何か底冷えするものを感じていた。
6 22/01/20(木)01:39:46 No.888609705
小一時間ほど思い出話とこれからの話をした後、彼女は暇を告げた。 これから寮に置いてある私物を全て引き払い、メジロの家に運んでもらうそうだった。 私はドアの前で彼女を見送った。 彼女は入室の時と同じように綺麗なお辞儀をして、トレーナー室を去って行った。 去り際に彼女の長い髪がふわりと揺れて……一瞬、ほのかに甘い少女の体臭が漂った気がした。 彼女の姿が見えなくなってからも、しばらく廊下の先から目を離せなかった。 それから部屋の中に戻り、彼女が座っていたパイプ椅子の腰掛けに手を当てた……まだ少しだけ彼女の体温が残っていた。
7 22/01/20(木)01:40:04 No.888609742
午後は全く仕事が手に付かなかった。 昔のノートを最初から終わりまで何度もめくり返したり、意味もなく部屋の中を何周も歩き回ったりして過ごしていて、いつの間にか窓の外が暗くなっていた。 ふとローズマリーティーを飲んで以来何も口にしていないことを思い出し、食堂へ向かおうとしたが、空腹を感じなかった。 食堂へ向かう途中に美浦寮があった。寮から2,30メートルほど離れたところに設置されたベンチに腰掛けて、寮の入口をぼんやり見つめていた。 もう彼女はとっくに自室の整理を終えてメジロの家に帰っていることは分かっていた。それでも目を離すことができなかった。 やがて寮の門限が過ぎ、辺りを行きかう影も途絶えてしまった。 天を覆う雲はいつしか消えて、満月が冷たく狂おしく夜を照らしていた。 私は砂袋のように重い上体を起こし、再びあてもなく歩き出した。 歩いた先はトレーナー室のある棟だった。もう夜も更けていたので、守衛に忘れ物をしたと言って非常口から入れてもらった。
8 22/01/20(木)01:40:43 No.888609852
なぜトレーナー室に戻ったのだろう? 理解したくはないが、理由は分かっていた。 法に触れるということもなかろうが、決して褒められた行為ではないし、私がこんなことをしていると知れたら、きっと人は…そして彼女は私を軽蔑するだろう。 ど昼前に彼女が座っていた例のパイプ椅子の腰掛けを一撫ですると、確かにそれはあった。 ……長く美しい、彼女の…メジロアルダンの髪の毛だった。 それを盗人が掏り取った品を入れるように自分のポケットに入れ、なるべく平静を取り繕って非常口を後にした。
9 22/01/20(木)01:41:17 No.888609935
私はとうとう後戻りのできないところまで来てしまった。 否、ずっと昔に一線を越えてしまって、今更そのことに気付いただけなのかもしれない。 彼女が教えてくれた味、彼女と一緒に聴いた曲、彼女の選んでくれた香り。 彼女の柔らかな声、彼女の美しい佇まい、彼女の憂いを帯びた微笑み、彼女の甘い匂い、彼女の残した温もり……。 私の五感は……私の魂は彼女を焦がれ、囚われてしまっていた。 彼女はこれから私がいない道を自分の脚で歩んでいくのだろう。 しかし、私は彼女のいない道をどうやって歩けばよいのだろう? 気が付けば嗚咽を漏らし、涙をこぼしていた。 それでも私は自分の手を彼女の髪の毛から出すことはできなかった。 私は彼女の細いひとすじの髪を、数珠を手繰るように親指と人差し指で撫で続けていた。 (終わり)
10 22/01/20(木)01:44:46 No.888610515
悲しい……
11 22/01/20(木)01:45:07 No.888610577
救い…救いはないんですか…?
12 22/01/20(木)01:45:40 No.888610666
蒲団みたいな話だ
13 22/01/20(木)01:47:48 No.888610989
(トレセン学園って午前中いっぱい授業じゃなかったっけ…)
14 22/01/20(木)01:48:34 No.888611092
(おかしい…メジロなのにトレーナーを連れ帰らない…?)
15 22/01/20(木)01:49:08 No.888611185
救いはないのですかぁ~?