21/12/12(日)01:51:10 11月上... のスレッド詳細
削除依頼やバグ報告は メールフォーム にお願いします。個人情報、名誉毀損、侵害等については積極的に削除しますので、 メールフォーム より該当URLをご連絡いただけると助かります。
画像ファイル名:1639241470875.jpg 21/12/12(日)01:51:10 No.875460028
11月上旬。トレセン学園。ある日の平日の朝。 アグネスデジタルは彼女のトレーナー室を訪れていた。 「おはようございます、トレーナーさん」 「おはようございます、デジタル」 机に座り仕事をこなすトレーナーに対して、挨拶もそこそこに、アグネスデジタルは鞄から封筒を取り出すと 「はい…例のブツです」 といい、両手で頭を下げながらそれをトレーナーに差し出した。 「ありがとうございます」 と一言彼は言うと、中身を確認し 「結構」 と言い、再びパソコンに向き直った。 (やっぱりツッコミはないんですねぇ…) と思いながら、アグネスデジタルは不愛想なトレーナーの姿をぼんやりと眺める。
1 21/12/12(日)01:51:30 No.875460116
「何か言いたいことでも?」 とトレーナーがパソコンに向きながらタイピングをすると 「いーえ。ただ…」 アグネスデジタルがどこか諦めたような乾いた笑みを浮かべて 「本当に行くんですね、香港」 と一言。 「そうです、次は香港ですよ」 淡々とトレーナーはそれにこたえる。 どうして、と問いかけたくなったアグネスデジタルだったが、天皇賞の帰り道に、海外に行きたくはないかと問いかけられたことを彼女は思い出していた。今思えばあれは雑談などでなく、ただの打ち合わせだったと昨晩気づいた彼女である。その時、彼女は「香港に行きたい」と確かに言った。あくまでバケーションの目的として。トレーナーはハナから次走を海外に視野に入れて打合せをしていたつもりのようだったが、見事にそれがすれ違ったのだ。 (アンジャッシュのコントかな?) それを思い出すたびにどこか能天気な笑いがこみあげてくる。このトレーナーとはいつもこう凸凹してばかりだな、と。
2 21/12/12(日)01:52:02 No.875460262
その場に立ち尽くすアグネスデジタルに対して、ふとトレーナーの手が止まり、彼女の顔に視線が向いた。 そして 「ひょっとして緊張しているのですか?」 と一言。 「ふぇ?」 何も考えていません、という意思が声に乗ったような音階。アグネスデジタルからそんな声が漏れる。 「…なんでもありません」 トレーナーが視線を逸らしてパソコンに向き直った。そして少しだけ考えた顔をすると、 「まぁ…、今回香港に行くのは貴方一人ではありませんから、その点は安心してください」 と話し始める。 「え?あたし以外にも香港カップに出るんですか?」 と首を傾げるアグネスデジタルに対して 「いえ、出るのはあなた一人ですよ」 そう答え、トレーナーは顔の前で両手を組み彼女の顔をもう一度見た。
3 21/12/12(日)01:52:27 No.875460392
「香港国際競争は4つのG1レースが同じ日に行われます。芝1200m、香港スプリント。芝1600m、香港マイル。貴方が出る芝2000mの香港カップ。そして、芝2400mの香港ヴァーズ。今回はトレセン学園から6人のウマ娘が出る予定となっています」 「へぇ~~…」 あぁ、そんなにウマ娘ちゃんが出るんだ、と思ったのもつかの間、アグネスデジタルの脳内にぼわぼわと妄想が浮かぶ。 (あぁ~~~……。なんか修学旅行みたい~~~。一緒の大部屋でパジャマパーティとかできないかなぁ……。恋バナとかしたいなぁ~~~……。話す内容がなにも思い浮かばないけど) アグネスデジタルの目が宙に浮かび、自分の世界に入りはじめたのもつかの間。 「因みに貴方ともう一人は確実に出場が決まっています」 「え、マジですか?」 「えぇ。あなたもよく知っているウマ娘ですよ」 その言葉にアグネスデジタルの目が輝く。 「だ。誰なんですか?!」 と食いつき気味に目を輝かせる。
4 21/12/12(日)01:53:49 No.875460710
よく知っているウマ娘。頭の中に次々に思い浮かぶウマ娘の顔。テイエムオペラオー。メイショウドトウ。スペシャルウィーク。それともNHKマイルのクラシックの子。それとも大穴で今年の菊花賞ウマ娘のマンハッタンカフェ。誰なんだろうとあ思いを巡らす中。 「あぁ、彼女ですか…」 トレーナーからその名が語られた。その名前を聞いた瞬間、少しだけアグネスデジタルの顔が引きつった。 「まさかあの人がなぁ~…」 トレーナー室を後にしたアグネスデジタルは、うわの空の顔つきで、自分の教室へと向かっていた。廊下をとぼとぼと歩く中、思い出されるのは、香港ヴァーズに出ると言われたウマ娘の名前。 彼女のことはよく知っている。というか、トレセン学園にいるものなら、トゥインクルシリーズに興味のある者なら、だいたいその名前は誰もが知っている。
5 21/12/12(日)01:54:16 No.875460844
11月上旬現在、48戦6勝。主な勝ちレースはG2目黒記念と、G2ドバイシーマ。そして誰もが目を引く、G1出走回数18回という多さ、そして掲示板に入ったレースの多さ。にも拘わらず勝ちきれず、ナイスネイチャを超える稀代のシルバー・ブロンズコレクターと呼ばれる彼女。大ベテランのウマ娘であり、そして破天荒な性格で知られてもいる。 正直アグネスデジタルは、彼女とあまり話したことは無い。同じレースに出たことはあるが、どこか近寄りづらいと思っている。 そんなことを考えているうちに、アグネスデジタルは誰かにぶつかった。 「あっすみませ…」 と言い、頭を下げようとすると、そこに居たのは一人のウマ娘だった。 「あ…リョテイ先輩…」 アグネスデジタルがぶつかった相手。 身体が小さく背の低い黒鹿毛のウマ娘。彼女こそが、香港ヴァーズに出場するウマ娘。キンイロリョテイだった。
6 21/12/12(日)01:54:43 No.875460987
「あーさっみ…」 香港、シャティンレース場。香港ヴァーズ、2日前、早朝。 キンイロリョテイは最後の追切に臨むため、シャティンレース場を訪れていた。。 香港の天候は妙なもんだ、と苦々しく思う。一週間前に現地入りした時には若干暑いくらいで、練習を終えてホテルの部屋に帰ってきた途端、思わず冷房をきかせた彼女だったが、昨日からは12月の空気に違わぬ冷たい風が身体を包んでいる。暑かったり寒かったり風邪ひきそうだな、と苛つきを感じつつも、不思議と心は穏やかだった。 11月下旬に行われたG1レース、ジャパンカップは4着。いつも通りの結果。掲示板には入るものの、一着を取ることはできない、そんなキャリアを象徴するような結果で終わる。ただそれに対する悔しさよりも、どこかこの異国の地で、二日後に行われるレースの方に彼女の意識は向いていた。 何故ならば、このレースで、彼女の競技のキャリアは幕を閉じるのだから。 「おはよう、リョテイ」 「おう、トレ公」 トレーナーがそう話しかけ、キンイロリョテイもそれに応じた。 「体調はどうだ?」 「フツーだよ」 「そうか。じゃ、練習始めようか」 「おう」
7 21/12/12(日)01:55:07 No.875461085
簡単な挨拶を経て、ミーティングが行われる。 「明後日が本番だけどな、まぁ、今日も無理せず調整に努めるぞ」 「おう」 何年も一緒にいたトレーナーとウマ娘である。お互いがお互い、そんなにレース前の練習に対して語ることもないようだった。 いつも通りコースを走り、タイムを記録して、2人で確認して。それを繰り返すうちにあっという間に練習終了の時間になる。今回は異国のレースであるが故に、彼女ひとりがコースを使える訳ではない。 本当に身体を整えるだけの調整。そしてこれが、彼女の最後の練習になった。 「じゃ、上がるか」 「おう」 短い会話を経て、2人はターフを後にする。 12月の寒空に、澄み渡る空気が流れる、そんな冬の晴れの日。レース前のウマ娘たちの張り詰めたような空気の中で、キンイロリョテイの心はどこか落ち着いていた。
8 21/12/12(日)01:55:27 No.875461180
レース場を出てホテルに向かうタクシーの中の道すがら。 「リョテイよ」 とトレーナーが彼女に話しかけた。 「何だよ、トレ公」 「夜なんだけど、今日も付き合ってくれないか。一人で飯食うの寂しいんだよ」 そうトレーナーが申し訳なさそうに言うと 「わーってるよ」 と彼女は彼の顔をも見ずにそう言った。 すまんな、と言う彼の態度を少しだけ横目で見る彼女だったが、不意に (あー…こいつと飯食うのも、今日か明日で終わりなんだな) という思考がよぎった。だからと言ってそれ以上に彼女は何かを考えることもなく、そして彼も彼女に話しかけることもなく、喧噪溢れる香港の町に、2人を乗せたタクシーが走り抜けていった。
9 21/12/12(日)01:55:46 No.875461251
同日、夜。 香港、ホテル内レストランにて。 「やっぱここの飯まずいわ」 キンイロリョテイが目の前に並べられた中華料理をつつきながらそう言った。 「そうか?俺は好きだけど」 そう言うトレーナーに対して 「ぜってぇ不味い。お前の味覚がおかしいんだよ」 と彼女は舌を出し 「そうだな、お前の言う通りかもしれんな」 とトレーナーは苦笑した。 不味い不味いと言いながらも、普通に食事を取るキンイロリョテイの姿を見て、 (体調はそこまで悪くなさそうだな…) とトレーナーは思った。 ひねくれ者の彼女である。虚勢を張りたがる性格をしている彼女である。このウマ娘の言葉を真に受けてはいけない、何を望んでいるか、態度と前後関係から察しないといけないと、常々心に気を置いてきた彼である。
10 21/12/12(日)01:56:17 No.875461379
一度失敗したなと思ったのが、ドバイに遠征した時だった。 体調を聞くといつも通りだと言う割には、キンイロリョテイの顔色は、日に日に悪くなっていった。 何かがおかしいと気づいたが、どうも慣れない遠征のためか、食事を取ってもすぐ吐いていたようだと気づいたのは、レースに挑む少し前のことだった。 だからと言って、無理に食事や治療を受けさせては彼女の癪に障るため、どうにか「自分が食べたい」「自分に付き合ってほしい」と下手に出ることで、調整を試みた彼である。そんな万全とは言えない状況にも拘わらず、ドバイでG2レースとはいえ勝ってくるから、このウマ娘の底知れなさに感嘆したものである。。 幸いにも今回の香港遠征、ドバイのようなことは無いように彼には思えた。 「今日の練習、どうだった?」 「まぁ…フツーだな」 「そうか、よかった」 「よかったってなんだよ」 鼻で笑い挑発するかのようにキンイロリョテイが笑う。
11 21/12/12(日)01:56:40 No.875461468
「いつも通りが一番ってことだよ」 とトレーナーが苦笑して言い 「相変わらずつまんねー奴」 と彼女も返した。 不意に、トレーナーはレストランの窓の風景を見る。 高層ホテルのレストランだ、眼下には夜闇に輝く摩天楼の景色が広がっている。この風景のただなかで、彼女と食事をとるのはこれで最初であり、最後なのだ。明後日は泣いても笑っても最後のレース。それを思うと不意に言葉が彼の口から零れ落ちた。 「なぁ、リョテイ」 「ん?」 「明後日のレースなんだけどさ」 少し間をおいて、彼は彼女の方を向き直ると 「怪我無く、無事に帰って来いよ」 と一言言った。
12 21/12/12(日)01:56:59 No.875461538
しばらくの沈黙の後 「あのなぁ、トレ公」 とキンイロリョテイはため息をついて 「お前さ、2週間前にオレはジャパンカップ走ってんだぞ。こんな2週間ちゅークソインターバルで、無茶な日程組んだバカは誰なんだ?あ?」 と言い放つ。 それに破顔すると 「そうだったな、俺だった。すまんすまん」 と笑うトレーナーだった。 ため息をついてまた中華料理を食べだすキンイロリョテイの姿を見て、この小さな悪たれ娘が、どこか愛おしいものに思えて仕方ないトレーナーだった。
13 21/12/12(日)01:57:25 No.875461644
12月中旬、日曜日。香港・シャティンレース場、第5レース。 芝2400m、G1、香港ヴァーズ。 天候は曇り。バ場は良。 シャティンレース場には5万人の観客が押しよせている。今日は待ちに待った香港四大競争の開催日。世界中からトップランクのウマ娘たちが集まる祭典。世界のウマ娘たちを一目見ようとファンの熱気も自然と高まっている。 控室にて。 パイプ椅子に座ったトレーナーと、同じく腰かけてはいるがふんぞり返ったようなしぐさのキンイロリョテイ。 お互いに向き合い、最後のミーティングに臨んでいた。 「今日のバ場の状態だがな、良とされているが、若干湿度が高いせいかクッション性が高いようだ」 「はーん…」 「重バ場って程でないにしろな、それなりに力のいるバ場になりそうなようだ」 「ほーん…」 聞いているのかいないのか。そんな態度のキンイロリョテイだったが、なおもトレーナーは言葉を続ける。
14 21/12/12(日)01:57:50 No.875461733
「なぁ、リョテイ。練習の時に走ってどうだった?」 「うーん…まぁ、札幌みたいな感じだなーーーー。よくわかんねーけど」 それでいい、とトレーナーは思った。 素直に言葉を出さないのは彼女のいつものこと。だが、札幌レース場とよく芝の状態が似ているというのは正鵠である。それだけ分かっていればいい。あとはベテランの彼女を信じるだけ。それしか彼に出来ることはないのであり、それこそが彼が出来る最良の選択だった。 「でもなぁー…」 とキンイロリョテイが首をひねる。 「何だ、どうかしたのか?」 とトレーナーが問うと 「枠番最悪だからなぁー」 と困ったように笑みをこぼした。 今回のキンイロリョテイの枠番は14番。14人中14番だから、一番大外枠からのスタート。つまり走行距離が自然と長くなる、一番不利な条件からのスタートである。
15 21/12/12(日)01:58:23 No.875461898
その態度を感じ取り、トレーナーは少し驚いていた。いつもの言い訳じみた感じがない。どこか本当に一生懸命やりたいのに、不利な条件になってしまったと嘆いているような、そんな裏表のないような態度。 その言葉に、その態度に、少しだけトレーナーの心に緊張が漂った。 (ここで言葉を間違えたら…詰むな) 珍しく素直になっているように見える目の前のひねくれ者。ここは慎重に言葉を選んだ方がいい、と彼は思った。 「なぁ、目黒記念の時、覚えているか?」 「んー、俺が勝ったレースだからな」 「ドバイシーマの時は?」 「それも覚えてるよ、なんだよトレ公」 そう確認すると、トレーナーはにっこり笑って 「あの時、お前な。二回とも枠番が14番だったんだ 「え?」 途端、キンイロリョテイの目が点になった。そして少し身を乗り出したような恰好を取っている。
16 21/12/12(日)01:58:50 No.875461993
「覚えてないのか?」 とトレーナーが声を掛けると、頭を巡らしたキンイロリョテイは 「覚えて…ねぇ!!!」 と歯を見せて笑って言い放った。 「そうか」 とトレーナーも言って笑ってそれに応じる。 そして (よし…この対応で問題なさそうだな) と、安堵の息を心の中で漏らした。 「今回の14番枠、縁起がいいんだ。だからいつも通り走ってきてくれ」 「はいはい」 そう2人が会話をしているうちに、そろそろパドックに向かう時間帯に差し掛かりつつあった。
17 21/12/12(日)01:59:16 No.875462099
「じゃ、ぼちぼち行ってくるわ」 と言い、キンイロリョテイが立ち上がる。 その瞬間、ふと、トレーナーの心に魔が差した。背の小さな黒いウマ娘が自分の元から去ろうとしている。 このレースが終わったら、文字通り彼女は引退する。 (このまま…行かせていいのか?) 突然もたげてきた想いが、彼の心に巣くり始める。 (このまま送り出すのが、本当に正解なのか?) 答えのない問いが、彼の心に充満し始める。 最後のレース、最後のG1。彼女に対いて出来ることは、他にないのか。なにか他に言葉を掛けるべきことは。 その想いが 「リョテイ!」 彼の口から出て、彼女を引き留めた。
18 21/12/12(日)01:59:37 No.875462177
「…なんだよ」 途端訝し気な顔をして振り向くキンイロリョテイ。 「いや、その。な…」 呼び止めたはいいものの、出てくる言葉に詰まり、視線を逸らすトレーナー。 しばらく沈黙が漂うが 「…うわっ気持ち悪っ、もう行くぞオレ~」 とふざけた調子で言い、キンイロリョテイがその場を去ろうとした、その時だった。 「おい、待ってくれ」 「はぁ?」 「いや、その」 「いやマジで何なんだよお前。もう行くんだって」 問答を繰り返す二人。そんな中で 「あのさ」 遂にトレーナーは切り出した。
19 21/12/12(日)01:59:57 No.875462249
「お前とずっと一緒に練習してきてさ。何年も一緒に過ごしてきてさ。お前がすごいウマ娘だって、俺はわかってるし。…勉強になった」 「はぁ?!」 「お前はさ、ものすごく辛抱強いウマ娘なんだよな。辛くても弱音吐かずに、ここまで…怪我無く。49戦も走ってきた」 「お、おいおいおい、急になんだよ!!!」 戸惑うキンイロリョテイを構わずトレーナーは言葉をつづける。 「暑い夏の日も、寒い冬の日も。二人でずっと走ってきたよな、この数年。だから今日は最高の、最後で最高のレースをして欲しいんだ」 「え、ちょ…えぇ…??」 どんどん語勢が弱くなるキンイロリョテイ。それに対してトレーナーの言葉は熱を持つこと留まりなく。 「だから、今日は無事に帰ってくるだけじゃなくてな…。絶対に勝てる。だから最後に笑ってレースを終わろう。キャリアを終えよう。二人で一緒に笑いあおう!」 気づけばトレーナーはキンイロリョテイの肩を握っていた。小さな身体のウマ娘の肩を。 (あ……) そしてそれに気づいた瞬間 (やらかした……) と彼は天を仰いだ。
20 21/12/12(日)02:00:18 No.875462316
こんなことをして唯ではすまない。絶対この後回し蹴りが飛んでくる。そしてキンイロリョテイのメンタルは大荒れだ。それを宥めるためにも自分の身をもって犠牲にならなければ、と覚悟を決める。 しかし、一向に回し蹴りは飛んでこない。暴れる素振りもない。待てども待てども、沈黙だけが部屋の中に溢れかえる。 そんな最中 「……離せよ」 と一言、ポツリとキンイロリョテイが呟いた。 「あ、あぁ」 トレーナーが手を離すとキンイロリョテイは振り返り 「……行ってくる」 と言い、その場を後にした。 ドアが閉まる音がして、トレーナーがただ一人、控室に残される。 ただ時計の針の音だけが響く部屋で、これは正解だったのか、不正解だったのか、彼女と過ごしてきて一番分からない選択をしてしまったと、ただ頭を抱えるトレーナーの姿があった。
21 21/12/12(日)02:01:12 No.875462559
『さぁ、全てのウマ娘ゲートに収まって…スタートしました!!!』 発送のベルの音とともに、ウマ娘達が一斉に駆けだす。香港ヴァーズが遂に幕を上げた。 最初のホームストレッチ。14人のウマ娘に乱れなく、一斉に第一コーナー目指して長い直線を駆け進める。スタート位置から直線の長さは500m近く。府中並みの長さの直線だが、平坦なため体力が削られることはそこまでない。キンイロリョテイは外目中段につけ、第一コーナーに入るまでの位置取りをこなしていく。 (あー、やっぱりそんなに早くねぇなぁ…) キンイロリョテイは周りを見てそう思った。1周回って帰ってくる頃にはまたこの長い直線を通らなければならない。ということは末脚勝負になりやすいため、誰もかれもが体力の消費を抑えるため、最初からは全力を出さないのだと、彼女は感じる。そしてその考えは当たっていた。 第一コーナーを抜け、第二コーナーへ。若干スピードが上がったが、向こう所面に行くころにはまたペースが落ちる。
22 21/12/12(日)02:01:49 No.875462706
特に今回、目立った逃げウマもいないようでバ群はほぼ一団。二列縦隊になって淀みなくウマ娘たちが駆けていく。キンイロリョテイは14人中九番手ほどのポジションで前を伺っていた。 (これが…最後のレースかぁ) 走りに集中しながらも、ぼんやりとキンイロリョテイはこれが最後のレースであるという事実を噛みしめていた。 (結局、国内じゃ目黒しかダメだったんだよなぁ、オレ) そう思うと乾いた笑いが心から溢れ出てくる。 そして思い出したのは、トレーナーの言葉だった。 (オレが…辛抱強い…?) その言葉を思い出し、つい笑ってしまう。何言ってるんだアイツ、やっぱり見る目ないわ、と。 ただ悪戯に49回もレースして、まともに全然勝てなかっただけじゃないか。タイトルを取れなかっただけじゃないか。 もっと根性があれば、もっと力があれば、レースになんて何度も勝ってたはずじゃないか。 (オレがすごいウマ娘って…マジであいつ頭おかしくなったんじゃないか) そう思い、前を走るウマ娘の姿を見て、ただその背中を見て第三コーナーへ入っていく。
23 21/12/12(日)02:02:08 No.875462776
『さぁ、第三コーナーに入りまして!先頭から終わりまでおおよそ12バ身といったところ!そろそろ仕掛けてくるウマ娘がいる頃合いです!!!』 そう実況が告げる通り、バ群が少しずつ乱れ始めた。好位置に抜け出すため、ペースを上げ始めたウマ娘たちが出始めるころ、 (じゃ…行くかね…) とキンイロリョテイも位置取りを上げ始める。中段、七番手ほどまで押し上げるが、周りのペースも途端早くなり始めている。 そして第四コーナーに入るころ^ウマ娘たちは一層のペースアップをしていく。どうやらここからが本当の勝負のようである。 そんな最中 『おおっとエクレールが一気に抜け出した!!!残り600mを通過して三バ身、いや四バ身と差を広げていきます!!!』 一人のウマ娘が突出して抜け出し始めた。 (速い…!!!) (くそぉ…!!!) 後続のウマ娘たちも必死に縋りつこうとするが、どんどんと差が開いていく。 そんな先頭のウマ娘の背中を見て、キンイロリョテイの脳裏にはある記憶がよみがえっていた。
24 21/12/12(日)02:02:35 No.875462895
(最初は…フクだったな……) クラシックの頃。どうにか条件戦をクリアして、掴んだボロボロのクラシックへの切符。最初で最後の三冠のチャンスとなった菊花賞。そこで栄光を手にしたのは、マチカネフクキタルだった。 (その次は、スズカだった) クラシックが終わって、シニアに移り始めたころ、目の前に立ちはだかったのは、影無き逃亡者のサイレンススズカ。 (そんで、その後…スぺ達がやってきた)) さらにその後ろから、やってきたのは、スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダー、セイウンスカイ。黄金世代と呼ばれる後輩たちにあっという間に抜かされ、負けてきた。 (さらにオペラオーとドトウだっけ…) 不世出の歌劇王とそのライバル、この2人にも勝てなかった。 (あ、あのオタクにも負けたわ) 10月下旬に行われた天皇賞。そこで一着を取ったのはアグネスデジタル。 香港に出発する前、ぶつかられた時にやたらおどおどしていたがあれはなんだったんだろうか。 (そして…ジャパンカップ) 何かよくわからん煩いダービーウマ娘にも負けた。
25 21/12/12(日)02:02:55 No.875462975
(こんなウマ娘が、大したことあるやつな訳ないだろ…) そう彼女は思った。ずっとずっと負けてきた。いつか栄光に辿り着けるなんてそんなことなかった。だれもが自分を置き去りにして、抜いて、そしてただ自分は回数を走ってきただけだ。 それでもなお 「だから、今日は無事に帰ってくるだけじゃなくてな…。絶対に勝てる。だから最後に笑ってレースを終わろう。キャリアを終えよう。二人で一緒に笑いあおう!」 彼はこういった。自分を信じてくれると。 最後に勝とうと、一緒に笑おうと。
26 21/12/12(日)02:03:13 No.875463047
「……んだよそれ…」 キンイロリョテイの目が吊り上がる。 「……んだよ、それ…!!!」 前を向いて姿勢を低く取る。 先頭のウマ娘はもうはるか先、6バ身は優に離れ先陣を突っ走っている。 「んだよ!!!!もうオレだって負けたくないんだよ!!!!」 叫び声が上がる。キンイロリョテイが天に吠える。 そして 『さぁ第四コーナーが終わる!!!直線コースはもうすぐそこ!!!エクレール、このまま行ってしまうのか!?』 遂に運命のシャティンのホームストレッチが、キンイロリョテイの目の前に現れた。
27 21/12/12(日)02:03:44 No.875463159
『エクレール先頭!!!差は5バ身から6バ身!!!』 先頭を切り進めるウマ娘。そのはるか後方にバ群。そんな中で 『キンイロリョテイ!!!二番手まで上がってきた!!!』 キンイロリョテイが急浮上。しかしまだ差は5バ身ほど。 「くっそっがぁあああああ!!!!!!」 吠えたキンイロリョテイ。途端彼女の脚が加速を極めていく。 『キンイロリョテイ!!!差を詰める!!!しかしまだ4バ身!!!残り300!!!』 遥か先を進むはずの背中。いつも見つめることしかできなかった背中。しかし、今日は、今日だけは、その背中を追い抜くと。彼女の想いが足に宿る。 『キンイロリョテイ!!!ものすごい末脚!!!差は3バ身!!!』 全身全霊の末脚が炸裂し、どんどんと差は縮まっているがまだまだ届かない。 『残り200を切って!!!エクレール先頭!!!エクレール先頭!!!しかしキンイロリョテイ追い込んでくる!!!2バ身から2バ身半!!!!!』 少しずつだがキンイロリョテイの影が迫る。しかしもう時間はない。
28 21/12/12(日)02:04:10 No.875463276
それでも彼女は諦めなかった。 『キンイロリョテイ!!!キンイロリョテイ!!!差を詰める!!!残り1バ身半!!!』 どんなに背中が遠くても今日だけは諦めなかった。 『1バ身!!!』 心臓が壊れそうに高鳴っても、肺が破れそうなほどに傷んでも。 『半バ身!!!!!』 その手が届く瞬間になるまで。 そして 「走れ!!!!!キンイロリョテイ!!!!!」 ホームストレッチから遠く離れた観客席から、彼女のよく知った男の声が響いたその時、 『差した!!!差した!!!差しきった!!!』 彼女の背中に漆黒の翼が生えたような脚色で 『キンイロリョテイ!!!差し切ってゴールイン!!!!!』 この日、彼女は。 最後のレースで。生まれて初めてのG1レースでの栄冠を手にし、ターフを駆け抜けた。
29 21/12/12(日)02:04:53 No.875463448
何なんだ香港という土地は。 キンイロリョテイは一着でゴールを駆け抜けた後、あまりのことに驚いていた。 走り終わってクールダウンしている最中に勝利インタビューなんて聞いていねぇぞ、と。 お国柄だからか仕方ないかもしれないが、ウマ娘のレポーターが並走してきてマイクを向けるわ、言語は英語だわ、嵐の中で強盗に合ったような気分だと思いながらも、バ道を歩いていく。 「オレ…ちゃんと受け答えできたかなぁ…」 と彼女は思う。英語とジェスチャーでどうにかしたと思うが、先程の事ながら記憶が一切ないのだ。 覚えているのは会場がなにやら騒いでいるので手を振ってガッツポーズをとったくらいだった。さらに会場を見て驚いたのだが、日本から応援団が来ていたらしい。誰だと思ったら自分が負けた相手、マチカネフクキタルからサイレンススズカ、黄金世代の面々から、テイエムオペラオーにメイショウドトウ。全員が一様にそろって横断幕をもってはしゃいでいた。あと何故かこの応援団に混じって、この後香港カップに出るアグネスデジタルが一番号泣していたのだが、その理由がさっぱり分からないキンイロリョテイである。
30 21/12/12(日)02:05:22 No.875463575
「まぁ…いっか」 体中にほとばしった汗はいつものレースの後と変わらない。肺の苦しさも、脚のけだるさも。 ただ心臓の鼓動と身体に立ち上る熱は、どこか暖かく、燃えるようになりながらも心地いいものだった。 ふと自分に駆け寄ってくる男性の姿が視界に入る。 その男の姿を彼女はよく知っていた。 途端、頬が緩み彼に向かって無言で手を振る彼女。 「お疲れ様」 息を切らしながら駆け寄ってきた男性、トレーナーの顔は満面の笑みで満ちていた。 「なんだよその顔」 と悪態をつくキンイロリョテイだが、その顔からはにやけた笑みが全く収まり切れないでいた。
31 21/12/12(日)02:06:09 No.875463801
「リョテイ、お前もだよ。なんだよその顔」 とトレーナーが言ったのもつかの間 「うるせぇ!!!」 と肘内をするキンイロリョテイ。 そして 「どうだ。オレ、勝ったぞ!」 と、裏表ない、満面の笑みをトレーナーに向けたのだった。 こんな話を私は読みたい 文章の距離適性があっていないので失礼する
32 21/12/12(日)02:07:02 No.875464028
fu607562.txt これまでのやつ
33 21/12/12(日)02:07:26 No.875464146
力作だ…
34 21/12/12(日)02:07:52 No.875464276
好きです
35 21/12/12(日)02:09:38 No.875464737
こいつレース中のくせに回想してる…
36 21/12/12(日)02:11:49 No.875465235
すげえ…
37 21/12/12(日)02:12:23 No.875465427
キンイロリョテイはトニービン産駒を差別するのかーーーーーー!!!!
38 21/12/12(日)02:12:27 No.875465451
まさかガッツリリョテイさんの話とは…凄くいい…
39 21/12/12(日)02:12:50 No.875465582
ベテランウマ娘はトニービン産駒を差別するのかーーーー!!!!
40 21/12/12(日)02:13:03 No.875465635
>文章の距離適性があっていないので失礼する お前で距離適性あってなかったら全員Fだわ000
41 21/12/12(日)02:20:11 No.875467383
そりゃデジたん泣くよ……
42 21/12/12(日)02:23:05 No.875468004
リョテイはこうやって補完しないとね… 公式からお出しされる可能性薄いし… それはそうとして最高でした ありがとう!
43 21/12/12(日)02:23:38 No.875468117
流石に落鉄とかの話はなしか
44 21/12/12(日)02:26:38 No.875468683
力作だな
45 21/12/12(日)03:29:03 No.875476424
>身体が小さく背の低い黒鹿毛のウマ娘。 念押しされててだめだった
46 21/12/12(日)03:49:04 No.875478093
>こんな話を私は読みたい >文章の距離適性があっていないので失礼する メタクソ次に書くネタド被りして泣いてる「」ペもいるんですよ! 責任取ってもっと書いてください!