21/12/04(土)00:16:17 つかの... のスレッド詳細
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21/12/04(土)00:16:17 No.872848232
つかの間のぼせ上がった透明は、アルコールランプに蓋をした途端、黒く染まってフラスコへと堕ちていく。 トレーナー室、キーボードを叩く音。忠実に機能を果たすコーヒーサイフォンを見送り、温めたカップを二つ手に取る。いつからかコーヒーを淹れ続けた習慣は、三年分の時間にすっかり侵食されてしまっていた。今では、一人分だけ作ろうとすると味が安定しない有り様だ。 昼休み、遠く学園の喧騒が聞こえる。午後の日差しがそよ風を運んでいた。私は精一杯恨めしげに微笑み、仕事を続ける彼を眺めている。 もともと、私が沸かすお湯は150ccでよかった。コーヒー粉は中挽き15グラムで事足りた。お気に入りのマグカップと同じものを、もうひとつ探す必要もなかった。私は「お友だち」さえいれば、それで十分だったのに。
1 21/12/04(土)00:16:44 No.872848370
私をURAファイナルズのセンターまで連れていってくれたトレーナーさんは、有望株として複数のウマ娘を任されるようになった。彼の業務は多忙を極め、既に多くの結果を残した私を見る時間はだんだんと減っていった。 寂しくないと言えば嘘になる。だけど、彼の新たな担当バらにアドバイスを求められるのも、彼女達が着実にタイムを縮めていくのも、決して悪い気はしない。そうしてトレーナーさんの手助けをしながら、タキオンさんと走りを続ける毎日。私達の周囲はずいぶんと賑やかになった。こんな風に二人きりになるのも久方ぶりだ。 「トレーナーさん、お砂糖は」 定型文の質問は質問ではなく、休憩を告げる為の合図である。トレーナーさんはいつもブラックだ。
2 21/12/04(土)00:17:24 No.872848539
本当なら、これはボタン一つで楽に作れる。しかし、私はこの徒労にこそ価値があると知っている。抽出の終わったコーヒーを静かに注げば、無駄骨の結晶が豊かに香り立つ。無数に積み重ねたルーティンに淀みはありえない。はずだった。 『”二個”』 彼はパソコンを閉じ、答えた。ティースプーンを添える手がぴたり止まる。 「……甘いのが、お好きなんですね」 努めて平静を装い、しばらく使っていなかった角砂糖の瓶を取り出す。この行為に意味はない。重要なのはパスワード。私達だけの、秘密の合言葉。 『久しぶりにね。いいかな、カフェ』 「……はい」
3 21/12/04(土)00:17:52 No.872848668
一度、二度。砂糖を落とすたび黒が揺れた。カップの波紋は、私の心にまで反響して。アナタの顔さえ、まともに見ることができない。代わりにデスクのカレンダーをちらりと確認する。ぎっしり埋まった彼のスケジュール、だが明日からの週末のみ、不自然な空欄が二つ続いていた。忙しい中、トレーナーさんは私の為だけに時間を作ってくれている。その意味を考えた途端、心臓が早鐘を打ち始め、体温が急激に上昇していた。 「今日はマンデリンです」 思ったより声が上擦って、咳払いをひとつ。トレーナーさんは平然と礼を言いつつ、風邪かい?なんて聞いてくる。お友だちにぶたれてしまえばいい。 いつからだろう。こんな暗号めいたやりとりをするようになったのは。発端はもう覚えていないが、台本が生まれた理由の方は明白だった。禁忌に触れる私達にはただ言い訳が必要で、その導線は欺瞞で隠れ、儀礼的でなければならないというだけのこと。それは"教え子とトレーナー"というペルソナを、薄皮一枚で守り通す為の約束だ。
4 21/12/04(土)00:18:13 No.872848761
貴重な昼休みが足早に過ぎていく。会心の出来だったはずのサイフォンコーヒーは、味も何もよく分からなかった。なにしろこの合図を交わすのは約二ヶ月ぶり。彼の現担当達の夏合宿が原因である。 それがトレーナーさんの仕事だ。仕方がないとわかっている。それでも、ずっと欠けた半身を焦がれるような思いだった。心細さで自分を慰めたのは一度や二度では済まない。午後の授業は今晩のことで頭がいっぱいで、何一つ耳に入らなかった。 それもこれも全部、アナタのせい。私はもう、一人でなんていられなくなってしまったんだ。
5 21/12/04(土)00:18:52 No.872848950
放課後、すぐに外泊届けを提出した。 ユキノさんに週末は戻らない旨を伝え、キャリーバックを引いて学園を出る。逢う魔が刻。夕暮れに歩く私とお友だちの影が、寄り添うように長く尾を引いていた。昼と夜とが混ざり合う黄昏は、丑三つ時と同じく"彼ら"が活発になる時間帯だ。お友だちが睨みを効かせている間に、濃い影に紛れて帰路を歩く。彼と一緒でなければ、私は誰にも気づかれない。はず。 トレーナーさんが自宅に戻るのは早くとも20時ごろ。時間はまだ早いが、私には入念な準備が必要だ。合鍵を使い、玄関を開ける。お友だちが肩を叩き、"しっかりな"と笑っていた。 「……そうだね。わかってる」 ドアの裏で深呼吸をして、再び施錠。お友だちはふらりとどこかへ。ここからは二人だけの世界だ。
6 21/12/04(土)00:19:21 No.872849089
キャリーバックを抱え廊下を進む。彼の自宅のそこかしこに、私のいた痕跡が点在していた。わざと置き忘れ続けている傘に始まり、女物のスリッパ、化粧水と洗顔料、コーヒードリッパーにマグカップ。カーペットの裏とベッドの下にはヘアゴムを仕込んでいる。 トレーナーさんの領域を少しずつ侵食するように、意識的に私物を増やしてきた。これは魔除け。万が一にも、彼が女性を連れ込めないようにする為の楔。アナタはそんな事はしないと、分かってはいるのだが。 電灯の消えた部屋は薄暗く、夕暮れが終わりつつあると告げている。これから夜の帳が降りると共に、私達の時間がやってくるのだ。
7 21/12/04(土)00:19:53 No.872849241
軽く食事の支度を済ませると、制服を脱ぎ捨て浴室へ。ゆっくりと時間をかけ、熱いシャワーを浴びた。 湯が一日の汗を流し、自分と外界との境界線を伝い落ちていく。無駄を削ぎ落としたステイヤーの筋肉、少女そのものの細い骨格。身長155cm、ウェスト54cmの破滅的な華奢さで最高時速70kmをマークする矛盾を体現したこの体。 かつては霊障にされるがままで、体重さえ自分の思い通りにならなかった。砕ける爪に全身の痣、幽鬼のような蒼白の肌に浮き出るあばら骨。常にあちら側へ引っ張られる感覚があり、私が私でないような漠然とした不安を拭えない。自分は確かに生き、存在していると、自信を持って断言できなかった。 今は違う。私は私を完全にコントロールしている自負がある。まだ、あちら側の住人になっていない確信がある。3分強で3000mを走破する強さ、白を保ちながら生気を湛えた肌、最低限とはいえ少女らしい柔らかさと丸みさえ、アナタのお陰で取り戻せた。つまり、髪の一本からつま先に至るまで、この体はアナタのものだ。
8 21/12/04(土)00:20:15 No.872849348
生活感の匂いを余さず洗い落としたら、潤いのある間に全身へスキンケアオイルを塗り込む。指先で触れるとよく分かる。以前よりは遥かに良好な状態だが、まだまだ男性が求めるような柔の質量にはほど遠い。手足の線は細く、胸も腰も薄い。けど、何も問題はない。 同じことだ。私が短距離やマイルのレースに出る必要はないし、先行逃げ切りで一着を取る必要もない。自分の強み、持っている武器を存分に活かせばいい。そう、アナタが教えてくれたこと。 だから私は研ぎ澄ます。細いならばより細く。薄いならばより薄く。より白く、美しく。オイルで鈍く照り返す肌が、硬質的な輝きを放つほどに、私の曲線は何よりも強調される。ささやかな膨らみが彫刻のように際立つ。”抱き締めたら折れてしまいそう”、ではない。抱き締めるアナタの心臓を刺し、消えない傷痕をつける程に。抜き身の刃になるのだ。私は。
9 21/12/04(土)00:20:37 No.872849448
髪は丁寧に乾かす。古来より、女性の髪には霊力が宿ると言われている。幼少期から伸ばし、一日も欠かさず磨きあげ続けたロングヘアの魔力は、今宵アナタを振り向かせる為だけに使われる。 香水は使わない。使う必要がない。私自身に染み付いたコーヒーの香りと、常用するシャンプーリンスの匂いこそが、最もアナタを誘引すると私は知っている。 勝負服に袖を通す。これは鎧なんだ。弱く、脆く、心を閉ざしていた私が、慈悲なき勝負の世界でG1ウマ娘を演じる為の。摩天楼の幻影はアナタに暴いてもらわなければならない。その儀式を以て、私はようやく娘から女へと羽化するのだから。 化粧はごく薄く。メイクとは、自分の全盛期を常に再現しようという試みである。私は今が全盛期だ。競争バとしても、女としても。明日も、明後日も、来年だって。アナタが見ている限り、私はいつも最高の仕上がりなのだ。
10 21/12/04(土)00:21:04 No.872849577
夜の帷が落ちて。かちり、と鍵を開ける音がした。 『……カフェ?もういるのか?』 アナタが呼んでいる。だから私は向かう。楽園へ。その腕の中へ。 「はい、ここに」 影から現れた私は、アナタにとっては不意打ちだっただろう。息を呑むのが見て取れる。君の愛バが誰なのか、これでよく理解できただろう。ずっと散漫だった目線を釘づけにしている。でも、それは私とて同じ。アナタ以外は何も見えない。ここが楽園。一時の先行こそ許せど、完全に差し切って辿り着いた──私だけの居場所だ。 『カフェ……』 アナタの瞳が熱を帯びている。私はこれから壊される。ガンメタルブラックの輝きは白く汚され、私は無為に堕ちていく。それを予感していながら、その瞬間の為に黒を磨き上げた。私はこの徒労にこそ価値があると知っている。
11 21/12/04(土)00:21:26 No.872849681
「お砂糖は、何個にしましょうか?」 月曜日、私は学園を休んだ。