虹裏img歴史資料館 - imgの文化を学ぶ

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21/11/14(日)01:47:40 「泣か... のスレッド詳細

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21/11/14(日)01:47:40 No.866404247

「泣かないで、フク。ほら、ここにお尻ぺったんして、ゆっくり深呼吸したら……うん、私の方をみて?」  ここはどこだろう、とかいう隙間なんてなかった。  ああ、まただ。  何度も経験したから鈍い私でも流石に分かる。  明晰夢、って言うやつだ。  声も出せないし、動けもしないのに、見ることはできる不思議な夢。テレビを見るみたいな夢だ。 「可愛いのに泣いたら台無しよ。ね、どうして悲しくなっちゃったか、教えて?」  映る風景は大体同じで、どうやら本日もリバイバル。白い靄の張られた、あの懐かしい境内裏。めそめそする私を慰める、優しいお姉ちゃんのワンシーン。なんで泣いていたのかも思い出せないし、私の言葉は嗚咽に隠れてしまって耳を澄ませても聞くことなんてできない。だから、お姉ちゃんの問い掛けだけが過去を覗く私に届く。 「うん、うん。大丈夫よ、フク。何も、何だって。そんなの気にしなくていいのよ」  私は泣き止まない。下を向いて、スカートの裾を強く握りしめたままだ。  お姉ちゃんは困ったように顎に手を当て、森の奥、空の先に視線をやっていた。うーん、うーんと数回唸って、ハッとしたかと思うと唐突に手を叩いた。

1 21/11/14(日)01:48:10 No.866404349

「ぽんぽんぽん! そうだ、分かった! フク、気にしなくて良くても、気になっちゃうなら。分かってたとしても、それでもやっぱりこわいなら。お姉ちゃん、ほんのちょっとだけ、難しい言葉を教えてあげちゃおうかな?」  おどけた仕草に、ずっと俯いていた泣き顔が前を向く。私が何かを言っている。だめだ、やはり聞き取れない。変わらず、風景だけが見える。期待と不安がないまぜの、涙でびっしょり濡れた顔。そんな私の顔を見ながら、お姉ちゃんはほのかに、かすかに、笑ってみせた。 「みんな、あなたが居てくれるだけで。価値でいっぱい、なのよ?」  ぱちん。音も立てずに映像と音声が途切れた。もっと浸っていたくて電源スイッチやリモコンを探そうとするけれど、そんなもの見つかるわけもない。そして大体、スクリーンが切れた段階でこの夢は終わりを迎える。夢なのに眠気がくる。目を開けていられなくて目をつぶる。揺らぐ白が黒から青に変化して、いま薄い水色に変わっていく。  目が覚める、意識が戻る、夢が終わる。価値は私のなかにあるのよ。お姉ちゃんのことほぎが、現実に醒める私の耳元でこだまする。

2 21/11/14(日)01:49:38 No.866404715

 あのね、お姉ちゃん。  私の価値って、なんだろう?  お姉ちゃんほど走れるわけでもないのに。  自分に自信があるわけでもないのに。  それでも、走るための道に立っているのは。二本の足で立たせてもらって、このトレセン学園に来ているのは。  なにかを諦めるわけでないとしたら、本当になんでなのかな―― †  眠りから覚めた瞬間に、バッと起きられるひとはそう多くはない。重たく閉じられた目蓋は大抵の場合ぱっちりとは開かないものだし、寒い時期は布団の温かさに浸っていたくもある。あくびを噛み殺しきれず、寝起きの瞳に涙がたまる。布団を被ったまま手と足の指を握ったり開いたりしてみて、引き締められる肌とわずかに食い込む爪の感覚で、明日が来たことを改めて自覚した。 「……はあ……朝、かあ……」  私は朝がそんなに好きじゃない。こう、具体的に説明は出来ないのだけど、早起きとか眠たさとか抜きにしても何となく苦手だった。一日の切り替わりを否が応でも自覚させられるのが嫌なのかも知れない。あと、明け方を彩る青の切なさが涙の香りによく似ていて、なんとなく気持ちが重たくなるのも足せる。

3 21/11/14(日)01:50:29 No.866404935

「でも、そうだなあ……」  幸運で着飾った私専用のドレスを、無理やり脱がしてくるんだから、憂鬱になるのは当然だと思う。多分これが一番の理由だろう。夜と朝の違いはあるけれど、シンデレラもこんな気分だったんじゃないかな。いつかどこかで会ったら是非聞いてみたい。 「どうにも、ですねえ……」  落ち込んでいるときや、すごく悩んでいるとき。後回しにしたいことがあるときや、嬉しいことがあったとき。明日なんて来て欲しくないなあと思っていたとしても。それでも必ずやってくる、朝っていう怪物。怪物なんて仰々しいわりには、戦わなくても許されたりするから良く分からない。でもそれはお休みの日だけの話だから、本日とは関係ない話だ。  温もりに蒸れた枕から頭を離し、ぐうっと伸びをしながら半身だけ起こす。布団から抜け出た上半身が、春先の朝の空気を吸い込む。ぶるり、肌寒くて身体が震えた。  カーテンから射し込んでくる光が、この時期の「いつも」より弱い。隣のベッドから聞こえる律動的な寝息。まどろみでも二度寝でもなさそうなぐっすりとした息遣い。もしやと思い、ベッドボードに鎮座ましましている招き猫の目覚まし時計を見やった。

4 21/11/14(日)01:51:08 No.866405101

「やっぱり、そっか」  時間は四時をほんの少し回ったところで、早く起きすぎたなと嘆息する。暗い部屋は鬱屈としていけないけれど、朝のまぶしさで寝ている子を起こすのも忍びない。カーテンの裾をつまんで、ぺろりと引き上げる。窓の外から見える風景はいつもと同じ。違いがあるとすれば、地面の近くだけがほの明るく光っているところぐらいだろうか。  光の先を覗いたまま、横目でスマホを弄る。占いアプリを起動して、今日の運勢を調べる。たん、たんたん。何度かタップして煌びやかな演出のあとに出てくるのは、ふにゃっとしていて頼りないフォントと、無地にほど近いカラーリングで飾られた、末吉の文字。大凶から数えて上二つ。内容は、悩むこと多し、解決の糸口は近し。本当かなあと疑いたくなって、手は勝手に設定画面を開きだす。もう一度、引き直そう。アプリのキャッシュをクリアしようとして、その直前でやめた。今日の私にぴったりの結果を消して、新しく引き直したところできっと、胸に出来たしこりが取れることはないだろうから。  枕元にスマホをぽいっと放り投げ、また窓の外を注視する。考え事が捗るときは大体ぼうっと自然を眺めているときだ。

5 21/11/14(日)01:51:57 No.866405314

 そんなジンクスのおかげなのだろうか、夢がこさえた問題に紐づく私の根幹が脳裏に浮かんできた。  運命と幸福。  私が愛し、抱きしめ、縋っているものたち。  価値はどんなものにも宿るらしくて、運命の流れ、だとか。小さな幸福、だとか。物事の大小によって大まかに価値が決められてしまう。  シラオキ様をはじめとした神さまたちが仰るなら、私が早起きして悩んでしまうことすら運命になるんだろう。決定したらもう、ピリオド。寄せてくる荒波には抗えないから、とにかく頑張って上手に乗りこなすしかない。 「ひとは、運命には。八方破れ、ですねえ……」  ここ数日、ううん、ちょっと前からずっと。毎日ではないにしろ、同じ夢ばかり見ているからか、最近はよくあの日に貰った言葉を思い返して悩んでしまう。ひとの価値とは一体どうやって決められるんだろうって、益体もないことを。  見知らぬ誰かの当て推量?  神さまの独断専行による解釈?  自分と他人で決める自己満足?  夢のなかでお姉ちゃんに逢った日は、自分でも不思議なくらいナイーブになってしまう。

6 21/11/14(日)01:52:22 No.866405425

きゅっと絞られるように胸が軋む。パジャマの上から痛む場所を押さえて、静かに息を吐いてみる。苦しみは薄れたけど、私の感傷は強く刺激されて、本当にあっちを立てればこっちが立たずだ。  私は時々、本当に時々。自分がここにいて良い存在なのか気に掛かることがある。そう、時々。本っ当に時々、だけれども。分からなくなるときがある。解決できないくらいに悩んでしまうことがある。かち、かち。犬歯と犬歯が分からないことに堪えきれず唸っている。 「かち、かち……価値、かあ……」  あの日お姉ちゃんが私に語ってくれた、私の価値は一体どこにあるだろう。年齢をいくら重ねたって、未だに自分では説明はおろか答えすら発見できていない。あるって言われたって、分からないものを信じきれるわけないから。まずは誰かに示して欲しい。ただそこに在ればいいんだよなんて取り繕った答えではなく、まず間違いなく私がここに居て良い、居るべきだと認識させてくれる価値が欲しい。下らない洒落なんかじゃなく、私は価値を勝ち取りたい。私が走る理由について。運命や幸福で説明できないものに対して。私はかれこれずっと、確固たる理由を欲し続けている。

7 21/11/14(日)01:52:52 No.866405561

 ほう、とため息を吐いて、私はまだ窓の外を見続けている。えっちらおっちら昇ってくる太陽のことを、ちょっとだけ応援してあげながら。夜中よ終わるなとも念じながら。窓越しに見る外の景色は少しずつ変わり始めている。あともう少しで、太陽の全身がビルの隙間から現れそうだ。 「……んー……あれぇ……? フクキタルさん、どうしたのぉ……?」  窓から目を離して声の出所に首を振れば、同室の子が寝ぼけ眼を擦っていた。あれ、まだ寝てたはずじゃないっけ。不思議に思うのと同じぐらいのタイミングで、遮光カーテンを突き破るほどの眩しい光が窓から射し込み始めた。時計を見る。驚いた。いつの間にか三十分も経っていた。  堅苦しく説明するならば払暁の刻限。聞こえるはずもない鶏たちの一鳴きが、名残惜しそうにするお月さまにさようならを紡がせる。お天道様のやることは、どんなときだって変わらない。夜は終わり、朝が来る。私の得意としていない、鈍色の朝が。 「いいえっ、なんでも! おはようございます!」

8 21/11/14(日)01:53:14 No.866405663

 だけど、私は変わらない。変わっちゃいけない。一日の計は起きしなから。ブルーなんてどこかへ吹き飛ばして、私は普段通りの私であるべきだ。私はいつものように元気いっぱいに微笑んで、ベッドから離れるために起き上がる。数日は取れなさそうなしこりを心に抱えたまま。  選抜レースを終え、トレーナーさんとの契約を交わし、トゥインクルシリーズに登録して。運命によって邁進していけば時間は勝手に進んで行って、いつの間にかメイクデビューまであと二か月を切るところまで来ていた。  やる気と不安がせめぎ合う、ジュニア級までのモラトリアム。  さくら舞う時節はもう過ぎた。青々とした葉の茂る春半ば。夏はまだ遠く、未だ穏やかな陽気が幅を利かせている……はずの府中なのだけど。  どうにも今日は、春の顔をすっかり忘れてしまったみたいに、寒く寂しい雨がしとしと静かに降っていた。

9 21/11/14(日)01:53:50 No.866405777

 本日のトレーニング内容は、タイキさんとの並走によるスピード強化をメインにしていく、とのことだった。降り続けている雨はどうやら昼には止むらしい。けれど私たちは雨のなか並走を行っている。晴れたら練習レース場がやたら混むし、これからを見越して様々な状況での走りを練習しておこう、ともトレーナーさんは言っていた……はずだ。  私の調子は……正直良くはない。トレーナーさんと会う前にした占いの結果は、ごくふつうより若干格が落ちるものだった。占いの結果で下駄を履きたかったのだけど、作戦は失敗大失敗。はあはあと荒く息を吐きながら、雨に濡れ切った芝を見つめていたとき。熱を帯びた誰かの手に肩口を揺さ振られた。 「ン~……フクキタル、大丈夫デスカ? コンディション……ソーバッド?」 「あー……あはは、そんなこともない、と思うのですが……」 「アウーッチ! いま、分かりマシタ! オブヴィアスリー、バッドデス! と、ゆーかそもそも、いつもよりタイムぜんぜん出てませんモン! だめだめデース!」 「ちょーっ?! ひどくないですかぁ?!」

10 21/11/14(日)01:54:25 No.866405913

「ヒドくなんてありまセン! ヘイカモン、オッケー! 濡れてるからタオルでふいて……で、レインコートだけだと頼りないノデ、アンブレラ、持って! ヨシッ、ここでオヤスミなさいフクキタル! トレーナーさん、いいデスカ?!」  私は半ば、というか十割強引に休憩用のベンチに座らされた。  それからはもう、とんとん拍子だ。 「あの、ちょっ……」 「ありがとうなタイキシャトル。良い頃合いだしちょっと休憩にしよう。トレーナーさんも、すみませんがいいですか?」 「ええ、大丈夫ですよ」 「オスミツキも貰いマシタ、これでメージツともにお休みタイムデスね!」  タイキさんはいつも優しい。他人の些細な変化や仕草を見逃さず、辛そうであればすぐさま親身になって接してくれる。空気が悪いときにソワソワしていたり、時折、過剰なくらい心配してくれたりもするから、案外怖がりなだけなのかもしれない。けれど、有無を言わさない熱量で、誰に対しても同じスタンスで。裏表のない優しい笑顔を浮かべている。 「いやあ、ご迷惑をお掛けしちゃって……ありがとうございます、タイキさん」

11 21/11/14(日)01:55:11 No.866406090

 私もタイキさんのように伝えなければ。にへら、と固さのない笑みを渡す。 「ふっふん、ノープロブレム。エートたしか……こーいうのは……ソウ、情けはひとのためになる、デス!」  タイキさんは鷹揚に頷きサムズアップして、意気揚々とトレーナーさんたちの元へ駆けて行った。ちょっぴり違いますよ、と引き留める時間は流石になかった。  情けなさと後ろめたさを感じつつも、私の瞳は運命を追う。私のトレーナーさんは、タイキさんにアドバイスをしていた。時々ちらちらとこちらを窺ってくるから、だいぶ心配させてしまっているようだ。こんなときに思うのも不謹慎な感じだけど、私の周りには優しいひとばかりが大勢集まってくる。例に漏れず、トレーナーさんは優しい。優しさの度合いで言えば、大黒様ぐらい。ときたま怒りの相になるところも含めて、そんな感じだ。  押し掛けるような形で結んだ契約だっていうのに、あのひとは変に言葉を弄したりはしない。かと言って変に肩肘張ることもなく、フラットに、それでいてとても真面目に私と私のこれからに向き合ってくれる。 「優しい、なあ……」

12 21/11/14(日)01:55:42 No.866406217

 頬骨のあたりが熱くて重たい。冷やしてやりたくて傘のシャフトに頬を沿わせた。ひんやりする金属の棒に温もりを分けているのに、状況はなんでかあんまり変わってくれなかった。  理由も理屈も分かってる。上手く気持ちを切り替えられないのは、自分のポカが原因だってことぐらい。私に限らないかもだけど、弱っているときは優しくされた分だけ落ち込んでしまいがちだ。でもこれもやはり運命なのかな。休めている気がしなくて、目を瞑り鼻の付け根を強く揉んだ。 「ふっ、ふっ……」  三人を遠巻きに眺めていたとき、誰かの近づいてくる足音がした。風切る傘の音もゴアテックスの擦れる音もしない。多分、雨具を着ていないんだ。そこそこの雨降りだっていうのに、一体どんな物好きだろう。 「ふぅ……よし、走ろうかしら」  と、思っていたのだけど。ハイペースな足音と、聞き慣れた声で全部分かってしまった。スズカさん、問い掛けながら音の方を向けば、やはりそこには。曇天の下でも鮮烈に映える、朱の髪をたなびかせた想像通りの人物がいた。 「あれ、フクキタル。ベンチに座ってどうかしたの?」 「タイキさんからの命を受けまして、休憩中です!」

13 21/11/14(日)01:56:21 No.866406356

「そうなの? なら、いいけど……」 「スズカさんこそ、どうかしたんですか? 今日はお休みだって言ってませんでしたっけ」 「トレーナーさんに許可貰ったから、自主トレ中。練習過多になっちゃうから朝だけの約束だけど」 「ワッツ?! スズカまでスポーンするナンテ……まさかフクキタルの本当の姿って、ラッキーキャットだったんデスカーっ?!」  どことなくウイニングラン感のある表情で、目を丸くしたタイキさんが駆け寄ってくる。そのかなりオーバーなリアクションに、スズカさんは多分違うわ、と苦笑した。 「ついね、気になっちゃったの。元気のないフクキタルを見るのは、なんていうか、こう……珍しかったから」 「そういえば、そうデス。大凶引いちゃったときとはチョット違う感じデスヨネ」 「何かあったの?」 「ワタシたちで良ければ聞きマスヨ?」 「……ええと……それはぁ……そのぉ……」

14 21/11/14(日)01:58:00 No.866406713

 自分でも説明しづらい不安を言っていいものか分からず、明後日の方を向きながらお茶を濁す。すると突然スズカさんが、ぽん、と手を叩いた。 「よし……決めた。ねえタイキ。これから少し、時間を貰ってもいいかしら」 「ハイ! オフコース、オールオッケーデス、スズカ!」 「えっ、えっ?」  与り知らないところで、私が関与しないうちに、次のシナリオが組み上がっていく。 「フクキタルのトレーナーさん、いいでしょうか?」 「ありがとう。サイレンススズカ、タイキシャトル……うん、大丈夫、だと思う。頼むよ」 「はい、ありがとうございます。フクキタル、タイキ、準備はいいわよね?」  スズカさんは、真剣な瞳を向けたまま、笑った。 「一緒に、走りましょう?」

15 21/11/14(日)01:59:02 No.866406932

 霧雨の舞う練習のコース、そのスタート地点に私たちは並ぶ。 「位置について……」  準備態勢を取り、感覚を研ぎ澄ませれば。  ゲートの開閉音の代わりに小気味よい空砲の音が鳴り響いた。 「お先に失礼シマース!」 「行かせないわっ……!」  始まる、三人だけの模擬レース。  我先にと駆け出す二人に対して、私の出足はだめだめだ。誰の目にも一目瞭然なくらいのどでかい出遅れをやらかしてしまった。運の向かない私なんかに、勝ち取れるものなんてひとつもない。瞬く間に速度を上げていく二人に、ああ、俯いてしまいそうになる。 「……バカっ! ここからだろ、下を向くな前を向け!」  トレーナーさんの喝破で、丸めかけていた背がしゃんとなる。とにもかくにも全力で。あの日そう望まれて、私はそれに答えたのだから、今更逃げることなんてできない。へこたれてはいけない、勝負のアヤはまだ決まっちゃいない。  私に出来る全力を、出さないと。  運命を、逃したくはない! 「走れ! 走り出せ、マチカネフクキタルッ!」 「……はいっ! いっきますよぉーっ!」

16 21/11/14(日)02:00:55 No.866407300

 道悪の芝はひどく重たい。私の体力を奪い取るためだろう、一歩踏み出すたび、足引くように草と泥が纏わりつくのが分かる。それでも、食らいつかないと。爪痕を残す、まではいかなくても、私の価値を示さないと。なけなしの存在理由を失ってしまう気がする。  自分が得意とするポジションに位置取って、ラストの一呼吸で差し切るための準備をする。あまりに唐突なタイミングで用意されたレースだから、シラオキ様に祈るような時間なんて誰も与えてくれなかった。つまり私は自分だけの力で、目の覚めるような速さと持久力を持つ二人と競わなければいけない。踏みしめられた蹄鉄の轍に水が溜まっている。よければいい、けれど。たたらも二の足も踏めないのだから。刹那すらも惜しかった私は、作られた泥濘を思い切り踏み抜いた。  熱を発散しきれない身体が、小雨を弾いて蒸気に変える。走ることによって生み出されたスピードが、しとやかだったはずの空気たちを刃に変えていく。速度に乗る、雨を置き去る、二人の背を追う私に、私の過去が応え始める。今朝がたの夢に見た境内裏、松と楓に作られた優しい木漏れ日によって、すっぽりと抜け落ちていた、懐かしい記憶が蘇る。

17 21/11/14(日)02:01:58 No.866407502

『――だって、わたし。なにも、できないんだもん。なんにも、ないんだもん』 『何もないなんて、そんなことないわ。みんな、あなたが居てくれるだけで――』 「ああ、そっか……」  泥土を蹴りながら思い出した、夢のつづき。  先を行く二人の背中を見つめながら。  無我夢中で走り続けながら。 「私が、泣いてたのって」  二人は、速い。とてつもなく、速かった。  ハナ差で競り合う二人の後塵を拝したまま、差し切ることなんて結局できずにゴールを駆け抜ける。三人だけの模擬レースは、ここに終わりを迎えた。私は徐々に速度を落として息を整えていく。 「そう、だったんだなあ……」  ほんの少しだけ軽くなった気持ちを抱えながら、走り終えた二人のもとへと近づいていく。 「模擬レース、ありがとうございましたあ……にしても二人とも、速すぎ、ますよお」 「イエーイ、ヴィクトリー! スズカとフクキタルに勝ちマシターっ!」 「ふうっ……雨のコースは流石にタイキの独擅場ね。良い走りだったわ」 「スズカはもちろんフクキタルもとっても速かったデース! 二人ともケンソンはヤメマショー!」

18 21/11/14(日)02:02:39 No.866407645

 強烈なハグ、いやタックルをいなせず身体が仰け反った。重量級のスキンシップに目が回る。 「まってまって、タイキ。フクキタルが潰れちゃうわ」 「オゥ……ソーリーフクキタル、嬉しくなっちゃって、ついやっちゃいマシタ」 「ふふ、でもそうね。フクキタルの適性距離はもう少し長いものね。次走るときが楽しみだわ」 「え、と。次、次ですか……? 私、良いんでしょうか、こんなザマで、皆さんと肩を並べて……」  私のこぼした弱音に、スズカさんとタイキさんは目を合わせて、それからふっと悪戯っぽく微笑んだ。 「ねえ、フクキタル。走るのは好き?」 「……ええっ? そりゃあもちろん……」 「タイキは?」 「当たり前、デス!」 「だったら、いいじゃない」  すべてを知っているようなスズカさんの口ぶりに、私は眉をひそめた。 「だったら、とは……?」 「それ以上でもそれ以下でもないわ。走りたいから走る。私はそれだけで走っていられるもの」 「ワタシもおんなじ気持ちデース!」

19 21/11/14(日)02:04:28 No.866407987

「でも、そうね。あとのことは、私たちじゃなく」 「ウン、トレーナーさんに。聞いてみるとベター、デスヨネ?」 「え……? トレーナーさんに、ですか?」  困惑する私を置いて、たったそれだけの言葉を残して、しかしどことなく嬉しそうに。頬をほころばせた二人はそれぞれのトレーニングをこなしに去っていく。その代わりとばかりに現れるのは。 「おつかれ、フクキタル」 「トレーナーさん……」 「ここじゃ狭いし、たちっぱもしんどいから、座れるとこまでいくか」  被せられたタオルで髪に乗った雨粒を払いつつ、彼が作ってくれたチェック柄のひさしに入ったまま、踵を返したトレーナーさんについていく。  狭い荷物置き場だけど、二人で座る分には十分な大きさだ。ベンチに座って顔や首元を拭いていると、ずい、と横からたくましい腕と小ぶりな紙コップが視界に入って来た。 「ほんのりあったかいお茶をどうぞ……っと、ウエイターみたいになっちまった」  お茶をありがたく受け取り、こくんこくんと飲んでいく。体内にしみていく温かさに、凝り固まっていたものが解されていく。 「少しだけ、聞いてもいいですか……?」

20 21/11/14(日)02:05:00 No.866408133

「少しだけと言わなくても、大丈夫だよ」 「あの、私に、価値なんて、あるんでしょうか……?」  こつん、私の頭に向かって放たれた、痛みのないげんこつ。突然のことに驚いて当たった場所を擦っていると、トレーナーさんはいつになく真剣な声色で喋り出す。 「価値は研いでいくものなんだ。最初からあるとか、ないとか。言えないんだよ」 「でも、時々。時々不安になるんです。シラオキ様が後押ししてくれたのに、何も為せなかったら、とか。大吉だったのに成果を出せなかったとき、とか。これまでずっと、特筆すべきものなんてないって、そう思って来ました……から。だから、その……」  自分の気持ちを吐露していた矢先、割と無理やりな感じでペットボトルを口に差し込まれた。 「むっ、むぐうーっ?!」 「こら。自分から道を狭めるな」  突然やって来たスポーツドリンクで、お茶だけでは潤わなかった喉の渇きと、決壊しそうになっていた瞳の調子を整える。だいぶ無茶してきたけどトレーナーさんは実に平常運転で、私のことには特に触れず、憂い気に眉尻を下げたまま話しを続けた。 「にしても価値、か。なあフクキタル、どうしてそんなに気になるんだ?」

21 21/11/14(日)02:05:26 No.866408212

「だって……」  価値が無いと分かったら、みんな私から離れていきそうだから。それはきっと運命も私も何もかもひっくるめてそうだから。こんなこと、言える訳もなくて目を伏せた。 「言っていいよ。俺は、はいもいいえも言わないから」  頑なに口ごもる私へ、トレーナーさんは諭すかのように優しく語りかけてくる。 「価値って、誰が決めるんだ? 俺、いや見ず知らずの誰か? それとも自分自身、もしくは俺たちには手も届かせられない……神様、とかか?」 「あ、あの……トレーナーさん、怒ってます……?」 「いや? あー……悪い、そんな感じに聞こえたか。んじゃ、ちょっと趣向を変えるかな」  こっからは独り言だけど、と前置きしてトレーナーさんは話し続ける。 「考えれば考えるほど分からなくなるよ。自分の価値がどこにあるか、なんて。誰も教えちゃくれないし、自分で確信できるほど自分がすごいやつだなんて思えやしない。かといって求めたままには聞けないんだ」  だってさ、と区切ってから。 「怖いんだよ。どうしようもなく。価値を決められてしまうことが。たったそれだけのことが、すごく」  そう、過去を懐かしむようにはにかんだ。

22 21/11/14(日)02:06:37 No.866408504

「……トレーナーさんでも、ですか?」 「当たり前だろ、君は俺をなんだと思ってるんだ。無責任でもなんでもなく、分かるよ。フクキタル、君の気持ちは。同一視や比較なんてアテにならないけどさ、まあ俺もそうだったから。割り切れと言われても無理だよ」 「じ、じゃあトレーナーさんはどうやってその怖さを乗り切ったんですか!?」 「乗り切ったというか流したというか……俺の場合は時間が解決してくれた感じだ」 「じ、じゃあ私はどうすればいいんですか~!」 「待て待て結論を急ぐなって。まあ、そうだな。縋るのは良くないだろうけど、なあフクキタル。もっと君の信じるものに頼ってみたらどうだ?」 「私の信じるもの、ですか……?」 「ああ、そうさ。信じてみてくれよ、もっと。だって、俺たちが出会ったのは」 「運命……だから?」 「ああ、そうさ。運命。君が言っていたこと、だろ?」  あまりに優しい微笑みに、気持ちを塞いでいた塊が、ごく短い「あっ」の音と共にぽっ、と出ていく。運命、うんめい。トレーナーさんが口にしたその言葉で、私の持つ時計の針がぐるぐると巻き戻っていく。運命、そうだ。運命なんだ、その時点で価値が生まれたんだ。

23 21/11/14(日)02:07:18 No.866408656

 泣いてはないけど、目元を指先で拭った。そして、すう、と息を吸った。そしたら味が、した。  切なさに滲むこの苦味は、恐らくこのときの私にだけ与えられたものだ。別れを惜しむために焼かれた香からする辛味も。夜の月を見上げたときの寂し気に感じたあの酸味も。青く咲く芝の向こうに生えたプラタナスに見る甘味も。全部、全部、私はぜんぶ知っている。春の終わりがもうすぐ来るって教えてくれる、味と、匂い。運命に刻み込まれた過去の記憶。私は運命を信じていて、運命の先にあったこの運命を望んで此処に、来たんだ。一歩、踏み出したんだ。それがきっと、私だけの価値、なんだ。 「君の走りに付いていきたいと、そう思えたから。君が自分自身で価値を見つけられるように俺も手伝うよ。なにせ運命、だからな」 「……そうですね、そう、ですよね」  大理石に変わっていたはずの指先が自然と動く。空気だけしかない場所に、読めない文字を描いていく。太ももの上に移っても、指は動くことをやめない。やがてもう片方の指と合流して、忙しなくも嬉しそうに肌を擦り合わせる。気づけば、私は泣いていた。

24 21/11/14(日)02:07:57 No.866408793

 ほら。横合いからすっと差し出されるハンカチ。青地に繊細な黒の模様がきれいな、それなりにいいお値段しそうなそれで、涙をぬぐって、思いっきり鼻をかんだ。 「うおっ……ちょっ、おま……抱き合わせでティッシュも渡したのに」 「すみ、ません……」 「今日びフィクションでしか見ないぞ、いいもの見たわ」 「……あの、トレーナーさん」 「なんだ?」  自分で定められない私の価値が、欠片でもあると言うのなら。  私は、出会うべくして出会った運命に、捧ぐものがあるはずだ。 「全部、運命だとしたら。私……悩んでる場合じゃ、なかったのかも知れません」 「別にいいんだよ、悩んでも。悩んだ分だけきっと強くなれる道が見えてくる」 「それは、トレーナーさんの持論ですか?」 「いいや、俺の体験談」 「ええーっ?! それ、自分で言いますかっ?!」 「マトモなツッコミはやめろよ、なんか恥ずかしくなってくるだろ!」  仕切り直しの咳払いを一つおいてから、トレーナーさんは私に向き直る。

25 21/11/14(日)02:08:17 No.866408861

「とにかく、なんでも。これからさ。君も、俺も」 「はい、トレーナーさん!」  差し出される手を握って、ゆっくりと腰を上げれば。  山のようになった感謝の念が、閉じ切れない口端から自然とこぼれていく。 「ありがとうございます、トレーナーさん」 「ん? 俺、何かしたっけ?」 「私、明日から。朝が好きになれるかも知れません」 「……そうか。良かったな。君の悩みは少しでも晴れたか?」 「ええ。でもまだ、完全には。ですが、道は切り開かれた! そんな、気がしています。で、ですね……」  教えてくれる。握り締めたこの手と、握り返されている私の手が、確かな体温の繋がりが。ぐう、とお腹が鳴った。こんなかっこよく決めている最中に、なんて間の悪さなんだろう。恥ずかしさに髪の毛を弄んだ。 「そうか。んじゃ、まずは昼ご飯食べに行くぞ、腹減った」 「うう、はずかしい……」 「ははは、生理現象だし気にするなよ。生きてりゃ腹が減る。当たり前だからな。あ、サッとシャワー浴びてからな。俺も、君も。風邪ひいたらイカン」 「……ハイッ! 行きましょう!」

26 21/11/14(日)02:09:22 No.866409134

 大きな傘を開いたトレーナーさんの隣で、小ぶりな傘を開いて。二人の傘を横に並べて、水溜まりを鳴らしながら、私たちはゆっくり歩き出した。  他愛もない雑談を交わしながら歩いていく中で、私はさっきに貰ったトレーナーさんからのエールを反芻する。トレーナーさんの言う価値が、これから私に出来ていくと言うのなら。 「私、頑張りますね」  私だけが手に出来る、私だけの幸せのさだめを掴むことが。 「おう、頑張れ」  私の価値になっていくと、そう本気で信じていいと思えたから。 「俺も負けないぐらい頑張るからさ」  この先に、胸を張って。進んでいけると思うんだ。  だから、少しだけ。傘を脇に挟んで、手を合わせる。祈りを捧げる。目をつぶって、うつむき加減で。私は祈って、そして。 「あの、トレーナーさんっ!」 「ん、どうした?」 「いま、宣言してもいいですか?」 「はいよ、お好きにどうぞ?」  私と貴方の二人で、同じ速度で同じ想いで同じ場所で前を向いて。 「私は頑張りますっ、私と貴方に待つ運命をより良いものにするために!」

27 21/11/14(日)02:10:00 No.866409263

 他ならない私たちのはじまりに。いつまでも終わらない幸福の、運命の詩を、歌おう。歌い続けよう、他でもない自分の。早足で過ぎていくだろう、自分たちの未来のために。 「いつかに待つ、最高の福と運命を掴みに!」  見ててね、絶対。  明るい未来に向かって、私は進むから。 「なんか前に俺が言ったことにプラスアルファされてる気がするのは、気のせい?」 「そうですよ、それは気のせいってやつです! というかこれは所信表明というやつですから、似ていたとしてもあしからず~!」 「はは、まあいいか。なかなかに仰々しい表明だけど、目標はそれぐらいでっかい方が良いもんな」 「当然ですっ! なんせ私たちが出会ったのは……」  そう、心の中で頷いて。ほんの少しだけ駆け出して、トレーナーさんに向かってくるりと振り向く。そしてあなたがさっきしてくれたように、役者さながらに。私が持てる最高の笑顔と共に、導くように彼へと手を伸ばした。 「運命、なんですからっ!」

28 <a href="mailto:s">21/11/14(日)02:15:54</a> [s] No.866410514

fu523175.txt 長くて申し訳… 興が乗ってしまって… テキスト置いとくのでよければどうぞ

29 21/11/14(日)02:16:33 No.866410628

力作過ぎる…いいもん読めたわ

30 21/11/14(日)02:16:35 No.866410634

よければどうぞまで読んだ

31 21/11/14(日)02:17:11 No.866410739

あまりに大作でびっくりした

32 21/11/14(日)02:18:21 No.866410972

超大作じゃないか…

33 21/11/14(日)02:19:19 No.866411156

よかった...

34 21/11/14(日)02:20:01 No.866411310

フク怪文書読んだ後はLuckyComesTure聞くと元気が出る

35 21/11/14(日)02:26:55 No.866412670

今日はフクキタルの出会いの物語見直してから寝ようかな

36 21/11/14(日)02:35:20 No.866413854

あまあまなフク怪文書もいいがこういう真面目なのも滅茶苦茶すき... いつぞやの大長編なんかも良かったなあ

37 21/11/14(日)02:43:05 No.866414884

キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

38 <a href="mailto:s">21/11/14(日)02:44:52</a> [s] No.866415140

わーん…いい…ありがたい…

39 21/11/14(日)02:55:00 No.866416374

アンニュイな感情は笑顔を張り付けて隠すフクは強すぎるからダメ

40 21/11/14(日)02:59:08 No.866416835

読み進めてて隣にベッドにいるのがトレーナーか息子娘かと思ったけど普通に相部屋の子だった フクの同室誰だか判明してないんだよな

41 21/11/14(日)03:16:51 No.866418890

アプリじゃあんまり表に出さないけどフクがお姉ちゃんのこと引きずってないわけないよなぁ

42 21/11/14(日)03:25:47 No.866419893

フクの自己評価の低いところとか普段からは想像できない一面を知ると俺が守らねば…ってなるよね

43 21/11/14(日)03:53:53 No.866422747

フクの同室はマチタンだといいなあ…

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