21/10/16(土)22:33:17 「屈腱... のスレッド詳細
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21/10/16(土)22:33:17 No.857092887
「屈腱炎ですね。 と言っても、そう重度のものではありません。適切に静養すれば夏の暮れには復帰できるでしょう。秋華賞への出走も、おそらくは可能かと」 診断を告げられるときの不安も、それが軽いものだと励まされたときの安堵も、何故か現実味がなかった。隣で聞いていたトレーナーさんは胸を撫で下ろしていたが、きっとそれが正常な反応なのだろう。 「そうですか、よかったです… 本格的にトレーニングに復帰するのは夏からだな。それまではゆっくりお休み、レーベン」 「はい、ありがとうございます」 「うん。ここのところずっと忙しかったからなぁ。いい機会だから、友達と遊びに行ったりしたら?」 「それもいいですね。では何か進展があったら、連絡するということで」
1 21/10/16(土)22:33:58 No.857093183
ああは言ったけれど、同室の子は別のレースに出走することになっていて、今最後の追い込みをしている最中だった。流石に声をかけるのは気が引ける。 それに、夢の中にいるかのようなこの浮動感を何とかしなければ、何をしても手に付かないだろう。 あのときからだ。私の意識は、今もあの樫の舞台に置き去りになっている。 極限の緊張の中で最終コーナーを回ったとき、何もかも見えなくなった。目の前にあるゴール板だけが、透かし彫りにしたように浮き出て見えたのだ。 自分の意識ではない別の何かに、身体が乗っ取られているようだった。詰まる息も悲鳴をあげる脚も現実味がなくて、ただ一人でも多く追い抜くことだけを考えていた。 自分の身体が戻ってきたのは、私の名を呼ぶ実況と歓声が耳に飛び込んできたときだった。
2 21/10/16(土)22:34:13 No.857093311
誰もいない部屋で横になる。同居人は練習に出ていて、暫く戻ってきそうにない。 話し相手もいない静かで退屈な部屋を、携帯の着信音がやおら揺らした。 トレーナーさんからの連絡と思って携帯を開いてみると、ふわふわと浮かんでいた意識が驚きで少しだけ現実に引き戻された気がした。 思わぬ相手からの思わぬ誘いに、まだ浮ついた意識で、私は了承を返していた。
3 21/10/16(土)22:34:36 No.857093445
善きにつけ悪しきにつけ、彼女は目立つ人だった。その外見も性格も、凡そ平凡とは言い難い。 バ群の中でも一際目立つその白銀の髪は、人混みのなかで見つけるのも容易かった。 「おはようございます、今日は誘っていただいて──」 当たり障りのない言葉は、彼女を見た瞬間に遮られた。 立ち上がった彼女は伏し目がちで、その表情を伺うことはできない。けれど何も言わず、真っ直ぐこちらにずかずかと突き進んでくる姿を見ると、表情が見えないことが余計に不安を煽る。 先のレースで推しも押されぬ一番人気であった彼女を破ったのは、私だったのだった。馬鹿らしい妄想と打ち切っていたが、まさかその憂さ晴らしということなのだろうか。 「あの──」 慌てた私の声を遮るように、彼女が腕を振り上げる。本能的に目を瞑って、腕で顔を庇った、その時。 ぽん、と、頭の上に何かが置かれた。 「…ふふふ、ぁはははは…! ごめんなさい、思った以上にいい反応だったから、つい続けてしまったわ」 漸く見えた彼女の表情は、いつも通りの上品な、しかし屈託のない笑顔だった。
4 21/10/16(土)22:35:14 No.857093710
「まずは言っておかなくてはいけないわね。 オークス、優勝おめでとう」 立場からすれば嫌味にも聞こえかねない言葉も、彼女に限ってはそう感じさせない。目を細めて穏やかにそう告げる彼女の所作には、いつも気品があった。 「ありがとうございます…でも、あまり現実感がなくて。あの日からずっと、熱に浮かされてるみたいな感じで」 「ふふふ。周りの人は貴女が思っている以上に騒いでいると思うわよ? 優勝祝いを渡すように頼んできた人もいたのだしね」 先ほど渡された包みに目を遣る。丁寧に包装されているのだが、微かに漂う焼きそばと磯の香りの前には、それも不気味さを引き立てるスパイスにしかならない。しかも嗅ぐたびに別の海産物の臭いがする。 「あら、開けてくれないの?それが楽しみで引き受けたのに」 「開けませんよ…長生きしたいですから」 これの送り主であろう、私と彼女の数少ない共通の知人が何を企んでいるにせよ、私にとっては愉快な結果にはならないだろう。
5 21/10/16(土)22:35:36 No.857093862
「私のお気に入りなの。貴女の趣味に合うか不安だったのだけれど」 美しく整えられたアトリウムに備え付けられたテーブルに座ると、色とりどりの花が目に楽しい。小娘の身分では逆立ちしても手が届かないであろう優雅なアフタヌーンティーの時間に、私はただ驚くばかりだった。 「いえ、とんでもないです!こんなところ、普段は来れませんから…」 「ごめんなさい。見せつけたいわけではないのに、随分緊張させてしまっているようだから。 何も考えずに楽しんでちょうだい。そう大したことではないから」 そう言って彼女は店員を呼ぶと、私の分の紅茶も注文してくれた。
6 21/10/16(土)22:35:46 No.857093946
「脚の具合はどう?」 「大したことはないそうです。夏には復帰できるって、お医者さまが」 「そう…よかった」 彼女にそのつもりはないとわかってはいるけれど、レースに纏わる話題を出すのは気が引ける。けれど、私と彼女の間で取り交わせる話題といえば、レースのことしかない。 「ソダシさんは、次はどうされるんですか?」 「さぁ…どうしようかしら。 正直なところ、今レースに出るという気分ではないの」 意外な言葉を返されて、私は答えに窮した。無敗の栄誉は返上することとなってしまったが、そんなことを気に病むような人ではないと思っていた。 「湿っぽくなってしまったわね。この話はやめにしましょう。 さあ、遠慮せずに。まだお菓子もたくさんあるから」
7 21/10/16(土)22:36:25 No.857094219
「ああ、疲れた。怪我人を付き合わせるのには気が引けていたのだけど、楽しいから仕方ないわね」 「その割には遠慮なかったような気がしますけど…でも、いい気分転換になりました」 買い物に行き、彼女が前々から行きたがっていたらしいアミューズメントパークにも行き、嫌というほど楽しんで日も暮れたときになって、漸く帰路についた。
8 21/10/16(土)22:36:45 No.857094365
「どうして、今日は誘ってくれたんですか?」 存外に親しみやすい──けれどそんなことは今まで知る由もなかった彼女。私達の関係はターフの上で完結していたと思っていたのだけど。 「寂しくなったの。皆遠慮して、誘っても乗ってくれないのだもの。本当はあの子たちとも一緒に遊んでみたかったのだけど」 彼女の表情から常に離れることのなかった微笑みが、今は消えていた。 「私、好きよ。エールさんのことも、レイナスさんのことも、みんな。あのひとたちには伝わっていないかもしれないけれど。 ──だからかしら。誰もいないと思うと、なんだか走る気がしなくなってくるの」 人には知らない表情がある。何をしても崩せない、崩そうとする試みも嗤うかのような彼女の微笑みの裏に、あまりにも意外で、切実な思いがあったなんて。 何も知らなかった彼女のことが、少しだけ分かった気がした。
9 21/10/16(土)22:37:04 No.857094498
「──でも、貴女は嫌い」 嵐の中でも崩れそうにない彼女の穏やかな口調から飛び出した鋭い言葉に、私は思わず足を止めてしまった。 「私、性格が悪いの。知っているかもしれないけれど」 「ええ…今日で嫌というほど」 「…前から思っていたけれど、私と違って貴女は素でやっている分質が悪いわね」
10 21/10/16(土)22:37:25 No.857094645
「レースは好きなの。皆の息遣いを先頭に立って悠々と聞いていると、例えようもない優越感に浸れるの。 死に物狂いで追いかけてくる人も、或いはもう諦めてしまった人も同じ。心の叫びを聞くのは、いつだって気分が良かった」 ターフを駆けている彼女は、いつもそんなことを思っている。 女王は君臨してこそ女王たりうる。誰かの頭上に立たぬ者が、その地位を保てるはずはないと── ずっとそう、思っていたのだ。 「でも、あのときは違った。 私を追い上げてくる叫びの中に、一際強い息遣いがあった」 そんな彼女が、何かに衝き動かされて、変わろうとしている。 敗北の苦い記憶を振り返っているはずのその顔は、どこか懐かしく、鮮烈な想い出を語り聴かせるかのように、穏やかだった。
11 21/10/16(土)22:37:42 No.857094784
「それに圧されて、そのことしか考えられなくなった。 不思議なものね。抜かされる恐怖と一緒に、何かがこみ上げてきたの。 何かが一気に壊れるときに、大きな声で叫び出したくなったこと、ない? そんな気分に酔っていたの。そうして気がついたら、沈んでいた」 君臨する悦びのほかに、己を満たすものなどない、はずだった。 それ以外の何かに気づいたのは、玉座の下に目を向けるようになったからだろう。 「私は勝ちたかった。勝って見下ろせるなら、それでよかったの。丁々発止とか、畢生の宿敵とか、そんな泥臭いものに塗れたくはなかった。 あのオークスの前の私と、今の私は違う。変わってしまったわ。 壊れてしまったの。善いものも悪いものも、私が築き上げてきたものは、ぜんぶ」
12 21/10/16(土)22:38:00 No.857094914
無垢の女王はもういない。欲も穢れも知らない、ただの子供から抜け出す一歩を、彼女は踏み出したのだ。 「だから、貴女が嫌い。 善きにせよ悪しきにせよ、何者にも、私自身にも変えられなかった私を変えてのけた、貴女が」
13 21/10/16(土)22:38:23 No.857095078
「今日、貴女を誘ったのはね。貴女のことを知りたかったの。 本当に不思議ね。 嫌いな貴女との付き合いが、きっと誰よりも長く深くなっていくことを思うと、何だか愉しいの」 波打つ美しい白毛が街灯の光を孕んで、夜の空気に光の潮騒を作る。川辺の桜はすっかり散って、春の面影はもうない。 けれど私には、その姿が何よりも美しく、凛々しく見えた。 「だから、帰ってきなさい。ちゃんと脚を治して、最高の貴女になって戻ってきなさい。 ──ずっと、私の嫌いな貴女でいてね。私はまだ、走りたいもの」 花が散ったくらいで、桜の美しさは損なわれない。私を夢の内から醒まして、なお余りある程に。 秋になってもきっと、しゃんと立っているのだろう。
14 21/10/16(土)22:38:42 No.857095226
古い自分を変える一歩。新しい自分へ踏み出す一歩。 ──その一歩の始まりが自分の中から発したものではなかったことは、彼女の誇りを傷つけたかもしれないけれど。 でも、私はそれでもいいと思う。 「なら、ひとつだけお願いがあります。 私と、お友達に… いえ、ライバルになってくれますか?」 今のあなたが、私は一番、輝いていると思うから。
15 21/10/16(土)22:38:59 No.857095347
「…ああ、そうね。そう言うのね、この奇妙な関係のことを。 ──やっぱり。貴女はずっと、私より多くのことを知っていた」 打ち負かしたい。どうしても勝ちたい。 でも、勝っても負けても、その瞬間が一番、楽しかった。 矛盾した感情を支え続けた、愛しき怨敵よ。 「心配しなくてもいいわ。 大喝采を聴かせてあげる。待ち惚けて、退屈しないように」 どうか永久に、強く眩しく、輝いて──
16 21/10/16(土)22:39:40 No.857095671
勝つのは好きだ。 でも。 「白毛だからすごい」「白毛なのにすごい」 勝つ度に付き纏う風評だけは嫌いだった。 でも、私は何も言わない。言ってやらない。 弱音を吐いてやめてくれと懇願するなどと、自分を貶めることだけはしたくなかった。 なのに、彼女はそれを変えた。 だから、彼女には敵のままでいてほしかったのだ。それが私を支える、一番大きな力になるだろうから。
17 21/10/16(土)22:40:00 No.857095805
先頭に立つ。後ろから迫る、彼女たちの息遣いを背に受けて。 いつもと同じように運ばれる展開。けれど、私の心はあのときとは違う。 追いつこうとする歴戦の強者たち。 容易くはいかない。一瞬でも気を抜けばすぐに差し切られる。ただ見下ろしたいだけの私なら苦痛としか感じないこの状況に── ──昂りを覚える自分がいることに気づいたのも、何もかも彼女のせい。 「ソダシそのまま!ソダシ先頭! 今ゴールイン!ソダシ復活! 白毛のアイドルが真の女王となって、夏の札幌に君臨しました!」
18 21/10/16(土)22:40:12 No.857095901
だから、待っていて。 最高の私と、最高の貴女。二人で、もう一度示しましょう。 本当の私を。私がなりたい、私自身を。
19 21/10/16(土)22:40:49 No.857096169
おわり 秋華賞が近づく度に幻覚が強くなってくるんです 助けてください
20 21/10/16(土)22:42:13 No.857096750
素晴らしい良いものを描いてくれてありがとう
21 21/10/16(土)22:42:25 No.857096821
近づいただけでこれなら開催されてしまったらどうなってしまうんだ
22 21/10/16(土)22:42:57 No.857097074
ソダユバキテル…
23 21/10/16(土)22:43:32 No.857097344
上質だ…
24 <a href="mailto:ユーバーレーベンのヒミツ①">21/10/16(土)22:43:34</a> [ユーバーレーベンのヒミツ①] No.857097356
実は、汗を拭くタオルの色にこだわりがある。
25 21/10/16(土)22:43:37 No.857097395
いいもん見たぜ。ありがとう
26 21/10/16(土)22:43:56 No.857097512
とても良い…
27 21/10/16(土)22:44:16 No.857097644
少女漫画みたいなきれいな文章だ…
28 21/10/16(土)22:44:32 No.857097754
秋華賞の前に良いものを…
29 21/10/16(土)22:49:08 No.857099712
やっぱりライバルっていいものですね…
30 21/10/16(土)22:49:56 No.857100038
丁寧で良い文章だ...
31 21/10/16(土)22:50:16 No.857100182
尊いってこういう感情なんですね…
32 <a href="mailto:s">21/10/16(土)22:50:27</a> [s] No.857100269
Eveの群青讃歌を聴きながら書きました 今年の3歳牝馬はみんなキャラが濃くて幻覚が捗ります
33 21/10/16(土)22:52:21 No.857101056
白毛のG1ホースだけど世界初の話題性と常勝無敵の執念から生まれてきたと言っても過言じゃないから 今浪さんにじゃれてる姿は純粋でかわいいんだけど生い立ちと名前は人間の業が詰まってるなあと思う気持ちはある
34 21/10/16(土)22:53:31 No.857101558
レイナスちゃん早く治るといいな
35 21/10/16(土)22:53:33 No.857101571
札幌記念の実況いいよね ウマ娘化したら特殊実況に採用してもいいくらい
36 21/10/16(土)22:54:12 No.857101849
群青讃歌いいよね…
37 <a href="mailto:同じチームのある先輩との一幕">21/10/16(土)22:55:06</a> [同じチームのある先輩との一幕] No.857102207
「おいソダシ、ボーッとしてる場合じゃねぇ、一大事だ!」 「どうしました?地獄の釜の蓋で地熱発電をする方法でも思いつきましたか」 「まあ聞けって!ついに完成したんだよ、あのアルティメットまろやかおでんがさ! 実はな、正直無理だと思ってたんだよ。もうあいつは終わっちまった、まろやかご飯の羅刹はもう血の池に沈んじまったんだってな… でも、あいつは諦めてなかった。ついにアマゾンの奥地に辿り着いて、探し当てたんだよ!最後の一品、究極ののどごし糸こんをな! クソッ、自分が情けねえ!アタシもいつかヘール・ボップ彗星でシャーベットを作れる料理人になるって誓ってたのによ、いつから夢を忘れた古いウマ娘になっちまったんだ?」 「ふふふ、では管制室に呼んでください。トレーナーさんの宇宙遊泳は見ないと損ですから。ついでに貴女が二度と地球に戻ってこなければなお嬉しいのですけど」
38 21/10/16(土)22:55:37 No.857102415
「前から聞いてみたいと思っていたの。 なぜ貴女は、私とあの子に構うのかしら?」 「んー? んなもん、面白そうだからだよ。アタシを動かせるのは面白いこととハイオクガソリンだけだかんな」 「…そう」 「…オークスは残念だったな。 拭くもんいるか?ゴルシちゃん特製タオルしかねーけど」 「結構です。 私、泣きませんので」
39 21/10/16(土)22:56:23 No.857102728
お前の娘だろ!
40 21/10/16(土)22:57:45 No.857103283
ただ、凛々しく。 天を仰ぐことも俯くことも、彼女にはふさわしくない。 ──はじめてのライバルに、笑われたくないもの。