虹裏img歴史資料館

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21/09/02(木)01:04:48 ふう、... のスレッド詳細

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画像ファイル名:1630512288680.png 21/09/02(木)01:04:48 No.841675247

ふう、と溜め息を吐けば今日が当たり前のように終わっていく。毎日はある程度の速度で推移していて、だいたいジョギングくらいの速さで進んでいくように思える。まあ要するに、想像よりも早くに終わっちゃうってことなんだけど。別にそこに後ろ髪を引かれるとかそういうことはない。名残惜しさはあるけれど、悪いことじゃあないと理解しているからだ。終わりと始まりは表裏一体だし、何を為すにもぴったりとくっついていなきゃならない。まあ、その、なんだろう。前説が長くなったけど、要するに。私は今日の終わりを気分よく迎えている。 「ん?……きもちいい……」  ぱしゃり。ヒノキだかケヤキだか分からない木の色がついた、薄茶けたお湯を掬って、落とせば。すべらかなお湯たちと共に、湯の花が指の隙間からすり抜け落ちていく。ぱちぱたぱち、溢れる水滴からふわりと香るのは湿度の高い森のにおい。この合宿所は心地の良い古めかしさに満ちている。落ち着くんだ、これが。昭和の旅館を借り上げたようなひなびた風情が、おじいちゃんっ子の私には思ったよりもドストライクだったらしい。

1 21/09/02(木)01:06:30 No.841675688

 本日もつつがなく一日を終えて、早めの晩ごはんに与ったならあとはもうウイニングラン、つまるところのリラックスタイムだ。 「ふぃー……」  おおよそ二ヶ月の強化合宿も、一月経てば慣れたものになってくる。合宿はとてもいいものだ。最大効率でトレーニングに励むことができるから、結果的にいつもより余暇の時間をたくさんもらえる。合法的なおやすみタイムは最高に素敵だ。とりわけ誰の迷惑にもならないところが。 「んふふふ……」 「こんばんは、スカイさん」 「んー? どちらさま……」  生返事ひとつ宙に舞わせて、声のした方へと顔を向ければ。 「あら、フラワー。そちらもお早いおゆあみで」 「えへへ。たまには早めに入ろうと思いまして。おとなり、良いですか?」 「はいはいー……あ、そーだなあ。お隣と言わず……ちぇいっ!」 「ひゃあっ! あは、あははは、くすぐったいですよお!」 「うりうり、ここか、ここがいいのかー」 「あは、はははっ、やめてください、スカイさんっ、あはははっ!」 「しょうがない。やめて差し上げましょう! ではでは、洗礼も終わったのでお隣りへどうぞー」

2 21/09/02(木)01:07:25 No.841675907

「ふう、ふう……もう。あはは。ではお邪魔しますね。ふう……ん~、いいお風呂……」 「だねえ~……あ、そういえばこの木の感じ、何のにおいなんだろ? ひのき?」 「ふんふん……んーと、これは……ヒバっていうヒノキの親戚さんですね」  軽く鼻を鳴らしたかと思えば、フラワーは実に意気揚々と私に知識を教えてくれる。人差し指をぴん、と立てて誇らしげな顔で訥々と。相変わらず純真で可愛らしい子だ。私とは何もかもが対照的過ぎて、ソリが合うのが不思議に思えるほどだ。 「へえ。よくわかるねえ、さすがフラワー」 「うふふ、ありがとうございます」 「そういやさ、すっごい唐突かもだけど。聞いちゃおっかなあ」 「どんなことですか?」 「フラワーのトレーナーさんのこととか」  湯船の縁に頭を預けながら、意地の悪い質問を投げ掛ける。フラワーは照れくさそうにもじもじと身体をよじった。 「私の、トレーナーさんのこと、ですか?」 「うん、そう。どう思ってるのかなって」 「好きですよ?」

3 21/09/02(木)01:08:00 No.841676056

「へっ?!」 「そういうスカイさんはどうなんですか?」 「ええ?! 私!?」 「はい!」  嘘でしょ、フラワーにカウンターされるなんて。物見遊山で居ようとしていた自分が、物凄い勢いで湯船の縁から帰ってくる。まずい、このままではなんというか、持て余す。逃げの体勢を作るためにいそいそと窓ガラスの方へと歩み寄ろうと試みた。けど、さっぱり離れられやしない。フラワーはそんなのは分かってたとでも言わんばかりに、私の腕へ自分の腕を絡み付かせていた。 「えへへ、私はもう言いましたから。なーので、質問にはちゃんと答えてくださいね?」 「あちゃあやぶへび、参ったなあ……あー、私は……その、えーと……」 「きらい、なんですか?」 「ううん、違う。そうじゃないんだけどね……じゃさ。少しだけ。答えとは別でひとりごと、言ってもいい?」  返事の代わりに彼女は少しだけ首を傾げた。 「私ね、ときどき思うんだ。なんであんなにいい人がトレーナーになってくれたんだろうって」

4 21/09/02(木)01:09:03 No.841676307

 手と手を組み合わせて、きゅっとすぼめた親指の隙間からお湯を飛ばす。放物線を描いてまたお湯の中へと戻っていく。心に浮かんできた単語を並べたからか、ひどく怪しい日本語になってしまった。それでも多分伝わるはずだ、私が言わんとしている不安みたいなものについて。 「自分でも、なんでこんなこと聞くのかよくわかんないんだけどさ」 「スカイさんは、好き……なんですか?」 「ん~……あー……えと……えへ、あ、にゃはは。ごめんフラワー。いまの、その、今のはナシ」 「ふふ、大丈夫ですよ。いまのでぜーんぶ、分かりました。私は何があっても、スカイさんの味方です。悩みごとや進展があったら、いーっぱい教えて、頼ってくださいね!」  即答しないこと自体が答えになっていることぐらい分かっている。きっと私はフラワーに甘えてしまっているんだろう。否定せず、追及もせず。ひたすら優しく私に寄り添ってくれるフラワーに。

5 21/09/02(木)01:10:14 No.841676608

 不安ってやつはカタチがなくて質が悪い。いつもは心の奥底の隅っこでふわふわしてるくせして、こういう感傷に浸っても怒られない場所では出番とばかりにひょっこり顔を出してくる。こんな私なんかじゃ釣り合わない。好き……なだけじゃ、彼の隣に居て良い理由にならない気がするんだろ。淡い目つきで、みずみずしい唇で、私の気持ちを語り出す。 「……ありがと、フラワー」  聡いフラワーのことだ、私の思うこの不安をもっともっと伝えてしまえば、私が見ないふりしている先の未来まで見通されてしまう。キングが相手じゃなくて本当に良かった。彼女に吐露してしまっていたら、少なくともこの合宿中は気に掛けてくれてしまう。 「ほんとに、ありがと……」  とりあえずもとりあえず。歳上としての矜持は見せなければ。回答は避けて曖昧に笑ってから、フラワーへ感謝の言葉を渡した。誤魔化せたと信じて私は少しだけ目をつぶる。これ以上の何かは恥ずかしさが勝り過ぎてカタチに出来そうにない。私は火照りを隠すためにぶくぶく泡を立てつつ湯船へと沈んだ。

6 21/09/02(木)01:14:12 No.841677504

「うーん……相変わらずいいお風呂だったなあ……」 「びっくりするぐらいいいお風呂ですよね、あ、スカイさんちょっとこっち向いて……」  他愛もないお喋りをしながら数十分。身体を拭いて拭かせてとかやりながら、私たちは人の少ない脱衣所できゃっきゃしていた。 「はぁ~い。いやあ、誰かに髪をとかしてもらうの久々だなあ」 「ふふ、気持ちいいですか?」 「ん~、中々どうして。悪くありませんなあ~。寮でもお願いしちゃいたくなりそう」 「えへへ、私は構いませんよ?」 「あら、嬉しい」 「はーい、スカイさん。ドライヤー、おしまいですよ~」 「んふふ、ありがと。よーし、フラワーもこっち向いてね~……」  彼女の髪を優しく丁寧に乾かしながら、さっきと同じように雑談に興じる。そしてまた数分。軽く手櫛をして確かめて、私はドライヤーのボタンをオフにした。 「……うん、よし。大体乾いたんじゃないかな。ドライヤー甘かったらごめんね?」 「そんな、大丈夫ですよ。うん、ちゃんと乾いてます。ありがとうございます、スカイさん!」 「うむうむ、今後も時々はセイちゃんに任せたまえ~」

7 21/09/02(木)01:15:13 No.841677724

 小振りなバスタオルを首に放って、半分普段着の短パンを足に通す。ポッケから取り出した小銭を、番台さん代わりの集金箱に放り投げる。賽銭箱に放るよりも幾分か軽い音が響いたのを確認し、ガラスケースのような冷蔵庫からフルーツ牛乳を二つ取り出した。 「フラワーさんや、はいどーぞ」 「わ~……ありがとうございます、スカイさん!」 「にゃはは、もう聞いたって。ほら、一緒にいただきますしましょ?」  古式な紙の蓋をぺりぺりと捲って、お風呂上がりの牛乳に舌鼓を打つ。二百ミリもない瓶牛乳はちびちび飲んでもあっという間に空っぽになる。ちらり、横を向けばフラワーも牛乳を飲み終えており、何やら思案顔でこう呟いた。 「なにかお返ししたいなあ……」  お返し? 首を傾げようとした矢先。 「あっ、そうだ!」  フラワーは突然手をぱちんと叩いて立ち上がった。 「スカイさーん! ちょっとお先に失礼します! でも、すぐ戻ってくるので、入り口あたりで待ってて下さいねー!」 「あっ、ちょっ……」  引き止めようとするよりも随分早く、フラワーはお風呂セットを持って走り去り、『ゆ』の暖簾の前から居なくなってしまった。

8 21/09/02(木)01:16:04 No.841677883

「ときどき大阪のおばちゃんみたいに押し強いよねえ……」  脱いだ衣類やバスタオル、お風呂用のポーチを小脇に抱えて脱衣所から出る。にしても。待っていて、とはどういうことなんだろう。とか、考える暇もなかった。フラワーの行動について想いを巡らせようと腕を組んでからすぐ。この一ヶ月で聞き慣れた床のきしみを引き連れて、廊下の端っこからフラワーと、もう一人。そう、合わせて二人、私に向かって歩いてきた。 「え」 「おっ」 「なん、えっ……?!」 「いや、フラワーに引っ張られて……」 「まさか……」  廊下の奥を見れば、あの子は私のトレーナーさんの背中、その陰からぴょこんと顔を出し、にんまり笑った。それからフラワーがこっそり走り去る間際。いってらっしゃい、ぱくぱくはためく唇の動きに、ひらひらと振られる小さな手。ああ、なるほど。これはもう十中八九、お風呂場でのちょっかいへのフラワー流のちょっとした意趣返しだ。こうなってしまってはお手上げで、やっぱりいい性格しているなと舌を巻くばかりだ。

9 21/09/02(木)01:17:09 No.841678136

「……やられたなあ」 「あ、もしやそういうこと……」 「うーん……まあ、いいや! やあやあ、トレーナーさん。お風呂上がりのつやつやセイちゃんに何用ですかな~?」 「切り替えが早い……!」 「何用ですかなぁ~?!」 「わかったわかった、ムキになるなって。よし、んじゃあキミにご用事だ。夜分遅くになる前に。散歩でもどうだい?」  初めての夏合宿は面食らうことばかりだ。第一に休みがあんまりない。第二に甘やかしがそんなにない。第三に、思わぬところにとんでもないターニングポイントが現れる。 「ん。いいですよ。乗って、あげましょ?」  学園指定の芋ジャージにほとんど無地のTシャツ。虫刺されを避けるための薄手のパーカーだけ羽織って。サンダルつっかけて玄関を出る。適切な距離感を保つため、手は、繋がない。ちらり、夕焼けで真っ赤に染まった彼の顔を見る。多分、私の顔も同じようなものだ。けれど私はお風呂上がりだから、別の要因によって赤みが差しても多少の誤魔化しは効くだろうと、そう思った。

10 <a href="mailto:s">21/09/02(木)01:18:35</a> [s] No.841678470

なんかやたらに長くなったので分割しときます とりあえず今日の幻覚はここまでで

11 21/09/02(木)01:19:27 No.841678679

いや投げてもいいんじゃないかな…

12 21/09/02(木)01:19:41 No.841678737

しっとりしたスカイいいね…

13 21/09/02(木)01:21:36 No.841679162

ニシノさんは本当に賢いお方…

14 <a href="mailto:s">21/09/02(木)01:21:43</a> [s] No.841679195

>いや投げてもいいんじゃないかな… あと6000字くらいあるんだけどいいのだろうか…いいならぶん投げて寝る

15 21/09/02(木)01:22:52 No.841679461

俺は見たいからいいと思う

16 <a href="mailto:s">21/09/02(木)01:24:19</a> [s] No.841679756

おけ んじゃ全部投下するね

17 21/09/02(木)01:24:39 No.841679831

「そんじゃ、歩きましょっか。トレーナーさん」 「目的地はどうする?」 「ん~、あてもなく歩くから散歩なのでは?」 「確かに、それもそうだな。用もなく歩き回りますか」  土を踏み、しなびた青草を踏み。適当で中身のない談笑を交わしながら、私たちは用もない散歩を楽しむ。 「そうだ、フラワーのトレーナーさんとなに話してたんですか?」 「何って言ってもなあ。アルコールなしの晩酌に付き合って貰ってたというか、正直つまみ齧りながらクラシックとシニア戦線について話してただけっていうか……」 「あはは、オジサンとお兄さんの会話だ」 「オジッ……! なあスカイ、俺はその、まだ、若いと思うんだけど……?!」 「うーん、私たちからしたらもう……」 「言うな言うな、それ以上。悲しくなってきた」 「じゃあ、お魚の方に言い換えましょう。オジサンを」 「そんな歳とってそうな魚居るの……?」 「いるんですよこれが~。結構お高いお魚さんで、あと見た目キレイですよ?」 「マジか、気になるな」

18 21/09/02(木)01:25:21 No.841679966

「んふ、実は~写真がありま~す。トレーナーさん、見ます~?」 「見る見る!」  砂浜をとことこと歩きながら、右手に持ったスマホをちょっとだけ彼の方に寄せる。 「これこれ」 「おおスカイが釣ったのか! あ、めっちゃ笑ってる」 「ちょっとちょっと! 私じゃなくてお魚のほう見てくださいよ!」 「ごめんごめん、あ、これか。確かにヒゲな感じがなんとも」 「でしょ~?」 「でもさあ、どっちにしても正しい意味でのオジサンじゃないこれ?」 「あっ、気づいちゃいましたか。あはは」 「うーむ……若作りするかなあ……」 「冗談ですって、んふふ……おっかし……」  合宿所から海までの距離はとても短くて、笑いながら歩けばすぐ磯の香りが漂い出す。満ち引く波の音が近くなるに連れて、目尻もゆるく下がってくる。うん、とっても。悪くない気分だ。

19 21/09/02(木)01:25:55 No.841680085

「ねね。今度の休み。一緒に釣り行きましょうよ」 「砂浜釣り?」 「良いですねえ、勿論磯と……あと時間と都合が合えばクルーザーで船釣りも!」 「欲張んないの。まだ日にちはあるんだし分割でやった方が楽しめるでしょ」 「それにそんなすぐに船の予約とかできませんしね~」 「すぐ休む気だったんかい。ま、時間はあるさ。最近の頑張りの御褒美と合わせて、ちゃんと予約とっとくよ」 「いぇ~い! 言質取っちゃったり~! んふんふ、んふふ。期待しときますよ~?」  胸の前で小さくガッツポーズを作って、気持ち上目遣いで交わらせる。そしてその瞬間。恥ずかしそうに眼をそらす彼の姿を私は見逃さない。 「あ、照れてる」 「うるせ。照れてない」 「んふふ、うそつきだ」 「あーもう終わり終わり! 閑話休題にしよう、させてくれ」  お手上げとばかりに彼はそっぽを向く。しょうがない。あんまりいじめてもかわいそうだし、さっきのフラワーよろしくカウンターされたときに大問題が発生するので、追い打ちは掛けずにやつくだけに留めておいた。 「あ、そうだ。そういや言いたいこととやりたいことがあったんだ」 「ん? なんですか?」

20 21/09/02(木)01:26:36 No.841680232

「いやさ、今日のことについてなんだけど……」  ああ、なるほど。心のなかでぽんと手を叩く。彼の雰囲気から何を話そうとしているのか、何をしたいのかあっという間に察した。唐突な話題転換はトレーナーさんの得意技だ。そして始まる雑談は、まず始めにデイリーの出来事から入って。 「トレーニングの感触、だいぶ良かったな。着実に進歩してるなって感じたよ」  そこでお褒めの言葉を頂いたなら。 「流石、スカイ。偉いぞ」  それだけ言って。  トレーナーさんは少しだけ遠慮がちに、年頃の女の子の頭を撫でる。 「えへ……」  俯いてから出てきた笑顔だから、私が喜んでいるのはバレていないと思う。時々触れる耳からわかる温もりは、悪くないどころか心地よくすらある。ただ、この気安さから時折隔たりみたいなものを感じてしまうことがある。素直でいるにはどことなく遠いんだ、この距離は。自分を保つためにも、体裁を保つためにも。あまり長く受け入れるわけにはいかなかった。 「むう、また……」 「んと、嫌か?」 「や、別にそういうわけじゃ、ないですけど」

21 21/09/02(木)01:27:40 No.841680487

 長い時間の「撫で」は美味しいがゆえの猛毒だ。息を吸って吐いて、それを三回ぐらい繰り返すあいだだけ彼の手のひらを味わったなら。四度目の肺の膨らみのあと、彼の手を持ち上げるようにして除けた。 「もーおしまい。なでなで屋さんは閉店です。セイちゃんの頭はそんなに気安くないのであ~る」  私の顔はきっと、出掛ける前に危惧したとおりのアクシデントに見舞われている。腕を除けて、自然な仕草でおでことほっぺの熱さを確かめて、はあ、ため息が漏れた。自分の簡単さに呆れてしまう。ああ、夕日が照っていてよかったと、ほっと胸を撫で下ろした。 「なるほど、スカイの頭は何万ドル?」 「ん~、百万ドルくらいですかねえ?」 「函館の夜景と同じくらいか。高……いや、案外お値打ち価格かも知れないな」 「えぇ~? 金銭感覚おかしくなっちゃいました~?」 「いや、これからもっと高くなりそうだし。なんで落札しといていい?」 「ふぅ~ん……そ! じゃ、交渉権だけあげときます! 落札は~保留!」 「よっしゃ! なら、用意しとかなきゃなあ、契約金」 「んふふ、期待してますよ。ねえねえ、トレーナーさん、ここ。座ろ?」

22 21/09/02(木)01:28:14 No.841680611

「そうだな。立ちっぱもなんだし、そうするか」  波の届かないところ、ぱさついた砂浜にお尻をつける。夕焼けと暮らす夜は相変わらず静かなままだ。さっきまで漂っていた、誰かが着いて来ているような雰囲気は座るやいなやなくなった。多分ここが開けた場所で、身体を隠せるものがどこにもないからだろう。トレセン学園所属のパパラッチさんたちはもういない。つまり、ここからは、 「俺ら、で居られるな」 「あらら、気付いてたんですか。オドロキだ」 「まあな。気配察知術。つい最近通信講座で覚えたんだよ」 「あははは、そんなのあるわけないじゃないですか」 「はは、そうか? あるかも……はは、なわけないか。ははは……」 「そうですよ、あはは……」  右指を空に波打たせ、夜の香りをからめとる。乾いたような湿ったような。独特の空気だ。そうか、得心がいった。海と私と夜と貴方の雰囲気には、傘が必要なのかも知れない。 「なんか他に、言いたいこととか。ないんですか?」 「ええ? 他に?」  いつ降り出しても良いように準備する傍らで、私は次のセリフを催促する。トレーナーさんは顎に指をあて、ううんと唸った。

23 21/09/02(木)01:30:04 No.841681003

「いつもありがとう……とか?」 「んふふ、どうしたんです急に?」 「いやあ突然だと感謝ばかりが先に立つというか」 「なあにそれ。へんなの……にゃはは」 「あ、そうだ。スカイからは?」 「え? 私?」 「うん、そう。こんなときでもないと敢えて聞くことってなかなか無いし。なんか、ないのか?」 「それは催促? それとも……」 「お願い、だなあ」 「だったら……」  言ってしまうべき、だろうか。あなたが見出してくれなきゃ、今の私はいませんよ、って。  でもさ、言ったほうが、いいよね。だって、言いたいこと、だもん。  あの、と一段階タメを入れて。  そこから、勇気を出して声にしよ―― 「スカイ、どうした?」

24 21/09/02(木)01:30:36 No.841681099

 んふ。あはは。やめた。やめよう。そんな言葉、私らしくないや。第一、面と向かってなんて言えるもんか。直截的で、直情的なアイのコトバ。あなたに対してしか言えないだろう、ほとんど告白と一緒のセンセーション。そんなのを真面目腐った顔で、こっ恥ずかしいロマンごと口に出来たなら、今頃私はラブロマンスの主役たちよろしく、彼とひとつになっているだろう。そういう距離の詰め方は私の辞書には載せちゃいない。持って生まれた臆病さを盾にしながら、駆け引きしつつ一歩、また一歩寄っていく。それが、私の信条。なので、今もまた笑おう。 「にゃは……やっぱ、なんでも~……ありませんよ?」  脳内に去来したピンク色の妄想を振り払っていれば、そうか。ならいいか。いつもの口癖を呟いて彼は、海の奥の方へと視線をやっていた。こともなげに、全くもって普通のことのように。まるで、恋愛映画の主人公みたいに。

25 21/09/02(木)01:31:18 No.841681224

 横から見る垂れ目がちの瞳は、夜と夕方のきらめきを伴って私を強く強く射止める。なんなんだろう、ホント。ずるいですよね、おとこのひとってさ。突然攻撃力を増して襲ってくるんだもん、私を殺したいとでも言うのかな。溜息を吐くのもバカらしいし何より照れくさかったから、絶対に気付かれないように自分のうなじをこりこり掻いた。  あれだけきざったらしい台詞ばっかり言ってたくせして、まあいいやを決め込んだらすぐだんまりするんだからそりゃやきもきもする。ホント、少しぐらいは追求してくれたっていいのになあ。不満と不安、モリモリだ。  まあ、いいけどさ。それがトレーナーさんのホントウだって知っているから、法外な怒りみたいなのは感じない。どちらかと言えば、ああまたかって感じだ。そして悪くないなって思うのも、またかあって、そんな感じだ。このやり取りに言葉以上の意味はない。なるほどつまり、湿っぽい感情は全くもってお呼びじゃあない。だから、知らないふりしながらむくれっ面するのもおかしな話だし、私も黙って水平線の遥か向こうを見つめた。 「キラキラしてるねえ……」 「そうだなあ……」

26 21/09/02(木)01:31:57 No.841681339

 波うち際に寄せてくる白い泡たちが、黄土色に変わった砂たちに吸われて弾けていく。返す波は数の減った泡たちを急ぎ足で持ち帰っていく。浜辺のバス屋さんのお仕事は、帰り道だけやけに積載量が少ない。働き甲斐、あるのかなあ。泡たちはどこへ行っちゃったんだろうなあ。ぼうっと風景を眺めていると普段なら思いつきもしないようなことばかりが連想ゲームみたいに浮かんでくる。 「映画みたいだなぁ……」  それはトレーナーさんだって例外じゃなかったみたいだ。うっとりしたようなひとりごとが、私のウマ耳に伝わってきた。きっと彼もこの風景を見て何かを連想したんだろう。私の想像とはまるで違う何かを。  私たちだけに限らないけど、ヒトの見る風景は基本すれ違わないものだ。虹彩が導く同一の視界で、寸分違わぬものが瞳にうつる。そんなのは映画やドラマだけの手法で、実際はいやに鮮やかだったり、どこかしら退色しているとか、微細な違いが埋めようの無い隙間として生まれてくる。

27 21/09/02(木)01:32:30 No.841681434

 同じものなんてこの世には一つとない。服も、肌も、呼吸の間隔も。見える景色も、触れ合う感覚も、自分が持つこの気持ちも。何一つ同じものは無いからこそ、似てるかもと解釈したなにかを感じることができる。ムードってやつはそうして構築されるものだってことぐらい、私はとうに知っていた。 「ふふ。トレーナーさん、なに見てる?」 「海……?」 「にゃはは、そうじゃなくて」 「ああ、アホだった。俺に見えてるのは……果てのない水平線と、俺たちの未来」 「……あと、は?」 「俺と……キミ」 「……私も、おんなじ。ちょっと違うけど、おんなじ」  塩辛くも甘く思えるこの思い出を、胸の片隅にそっと残して。私はもう一度だけ二年目の合宿に浮かぶ、何も考えていなさそうな、シアンとマゼンタの混ざり合った夜雲を見上げる。ついでとばかりに鼻孔をかすめる秋のにおい。潮の芳香もするけれど、海からのものなのかはたまた別の要因なのか。その特定はどうしてか出来そうになくて、とにかくひたすらにあやふやなままだった。

28 21/09/02(木)01:33:37 No.841681643

「綺麗だよな、すごく」 「うん、そうですね。とても、きれい……」  正直ね、すっごく正直に言うとね。きれいとかすてきとか、いろんなのがあるけれど。何も。なにも、言葉にならないんだ。風景はただ、見えている、ような。そんな気がしているだけ。私のこのささやきは、夢見心地のオウムがするセリフを真似たものでしかなくて。ものすごく不思議なくらい心が感じてしまうんだ、こんなに近くにいるのに、友達よりも近い距離のパーソナルスペースを共有してすらいるのに。 「きれいで、とおいや……」  ちかくないよ、どうしてだろ。口にしたはずの呟きは、丁度寄せてきた波の音に飲み込まれた。ざざん、ざざん。浚われていく砂のあとに残るのは風景だけ。サンセットブルーのきれいなうみと、吸い込まれそうなコントラストのそらのいろ、たったそれだけ。  遠く遠くにくれないと、近く近くのあおのいろ。にじんで、よどんで、すんでいくこの空は、ああ、そう、きっと。十五と余年の人生の中じゃ、あんまりにも綺麗すぎるから。きっと、そうきっと。とわにとこしえに忘れられない、だろうから。

29 21/09/02(木)01:34:35 No.841681830

「あしたも、頑張りますね。トレーナーさん」  霞まず隠れずにきらきら夕方の空に立つ、はっきりした三日月を瞳に映して。 「ああ、勿論。キミも、俺も。頑張ろう」  脳裏に刻まれる彼の言葉を、彼と共に見るこの絶景を。  一字一句、一分一秒。  絶対に忘れたくないから、この想いに願いを込める。  けれどそれは、いつか終わると分かっているからか、まるで意味のない空虚なやり取りに思えてならなくて。この苦しみも、寂しさも。愛くるしさも、優しい手の感触も。恩知らずで臆病な私は忘れたくなってしまう。残しておいては足を引くから、何もかも明日の今頃には忘れてしまいたく、なる。  自分を騙し切れなくて胸が痛くて仕方無いのに。ちっぽけなプライドと自慢の逃げ足が邪魔をして、結局、当たり前のようにフィフティーンのターニングポイントが手元から離れていく。まだ早い、ここじゃない。出遅れていることに気付いていながら、手をこまねいて二の足を踏んで、手の施しようが無くなった頃合いで、身勝手な今年の私は来年の私に期待する。

30 21/09/02(木)01:35:49 No.841682060

「ねえ」  ほんとうにききたいことなんて、とてもたんじゅんでかんたんだ。 「なんだ?」  すき。 「なんでも……」  たいせつにしてくれますか? 「やっぱ、なんでも」  でもね、ゆうきがたりなくて。 「そうか」  すきだよ、とは、くちがさけてもいえなくて。 「いつか、聞かせてくれるか?」  押し黙る私に彼は問う、けれど。 「いつか……」  即答なんて出来やしなかったから、目を閉じてじっと考えてみる。たった三文字の「いつか」を、四文字の「このとき」に昇華できる日を。何百文字でも伝えきれない想いを語れたり、逆にもっと短く縮めて届けてみたり。セイウンスカイの胸底できらめいた、いろんな意味を持つ「すき」っていうセンテンス。言うも書くも軽くないこれを、おちゃらけなしであなたに伝えられる、そんな「いつか」は一体いつになるだろう。そのいつかはきっと、この夢が終わったその頃だ。その時彼は、私は。今のままで居られるだろうか。未来なんて分からない、いつかなんて分かりたくもない。いつかが来るかも分からない。

31 21/09/02(木)01:35:53 No.841682073

ほんのりアルコール入れてから読みたい感じの話だな…

32 21/09/02(木)01:36:37 No.841682210

あーあ、いやだなあ。私、夢から、醒めたくないや。この曖昧で甘ったるくて、私にやさしい夢だけを、ずっとずっとずうっと見ていたい。繰り返しがあったっていい、寧ろ永遠のループを望んでさえいる。 「うん、いつか。いつかさ」 「いつか、かあ……」  そんな私が唱えるいつか。もう一度口にすると、なぜだか耳の付け根が軋むように痛んだ。痛みで明らかになるのは、ちょっとした疑問への答え。多分ね、私はいつかなんて魔法、ほしくないんだ。叶うならトレーナーさん、あなたと一緒に。ずっとここに留まっていたい。見えない栄光を追いかけて、切磋琢磨しながら駆け引いていく、何よりも楽しいこの時間に。 「私は……」  生唾を飲み込む音が聞こえる。吸って吐いてを繰り返す呼吸がふたつ、等間隔な速度でウマ耳に聞こえてくる。待ってると分かる息遣いと雰囲気が、私におふざけなしのセリフを紡がせようと策を練り始める。 「じゃあ……」  ねえ、トレーナーさん。本当に言っても良いんですか?

33 21/09/02(木)01:37:05 No.841682300

「言お……」  私は、そのいつかの。先の見えない未来が、こわいって。 「……だめだよ、はは」 「スカイ?」  踏み留まれて良かった、こんなの言っちゃそれこそオシマイだ。  バカな冗談を口走る前に、無理矢理にでもこの話を。 「いんです、なんでも。ないんですし、ね!」  ここで終わらせよう。終わらせてしまおう、ニセモノのセリフを吐き散らして。今日の砂浜にさよならを告げて、勢いよく私は立ち上がる。平静を装うために頭の後ろで腕を組んで、トレーナーの動きを少しだけ待ってから踵を返す。情けなくて、しょうもなくて、怖くて仕方がないから手は、繋がない。優しい彼のすぐ近くで歩くこと、ただそれだけに甘えて。下らない雑談を交わしながら、更けゆく夜を後ろ背に灯りのともる方へと歩みを進めた。

34 <a href="mailto:おわり">21/09/02(木)01:37:40</a> [おわり] No.841682419

 二度と来ない十五の夕暮れが色を変える。知らないうちに弱気を挫き、勝手に進んでいく夏の十九時は、海の光が見えなくなった途端逃げウマもかくやの勢いでもって宵闇へと姿を変え、訪れる夜気に合わせたかのように私の前から失せていく。  僅かな塵屑も、微かな澱みも、不確かで曖昧な心づもりも、湿気った緑の匂いすらも残さず。 「また、明日も! よろしくお願いしますよ、トレーナーさん!」  駆け引きで勝ち得たこの夏の、潮の香だけを今日に残して。夏を奏でるメロディは消え、私の二年目の、八月が終わる。いつかを口にできる日が来るまで、きっととてもはるか遠く。あさがおの咲く静かな朝は、まだ始まりそうにないけれど。遠い遠い夏の向こうで、忘れていたいと願う朝は。なんだか、とても。すぐ、近い。

35 21/09/02(木)01:38:26 No.841682555

いいねぇ…早くくっつけ…

36 21/09/02(木)01:38:36 No.841682583

「」のくせに情緒的な言い回しを多用しやがって…

37 21/09/02(木)01:39:07 No.841682680

雰囲気で酔ってしまう…そんなお話だった

38 21/09/02(木)01:39:31 No.841682747

この腹の探り合いと互いの矢印の重さはいい具合にセイちゃんとセイトレの関係を表現してていいと思う

39 <a href="mailto:s">21/09/02(木)01:40:27</a> [s] No.841682932

長くてsorry… 連作にする予定だったんだけど一発目で長くなりすぎたからちょっと思案中 読んでくれて感謝だよ

40 21/09/02(木)01:41:03 No.841683032

早く年数経て…何も障害の無い時間まで進め…

41 21/09/02(木)01:41:18 No.841683081

とてもよき…

42 21/09/02(木)01:44:29 No.841683630

>読んでくれて感謝だよ いい空気感で好きよこういうの

43 21/09/02(木)01:47:51 No.841684173

スレ「」の表現滅茶苦茶好きだしゆるゆるとした長さもセイちゃんの心情描写と合っててすげー好き……

44 21/09/02(木)01:50:55 No.841684683

別に6000字って長くないし 感想も見る「」も分散するからできてる時は1度に出すべきよ

45 21/09/02(木)01:53:10 No.841685070

まぁスレ「」に任せたいところだけど一度に投げてくれたほうが見やすいというのはあるんだ

46 <a href="mailto:s">21/09/02(木)01:55:40</a> [s] No.841685468

書いてたら筆が乗っちゃって気付いたら1万とんで1000字とかになっちゃってね…流石に分割したほうが良いよなあと思ったんだけど一括の方が見やすいのねなるほどありがとう…

47 21/09/02(木)02:03:33 No.841686638

>書いてたら筆が乗っちゃって気付いたら1万とんで1000字とかになっちゃってね…流石に分割したほうが良いよなあと思ったんだけど一括の方が見やすいのねなるほどありがとう… わかる俺も筆が乗った時に2万字近くまで書いててうぇっ⁉︎ってなることがある 話を分けるにしてもどこで分けた方が残りの文量がちょうどいいか判断つかないこと多くて困るんだよね

48 21/09/02(木)02:07:19 No.841687240

情景がすっかり頭に浮かんでくるようなこの描写の丁寧さがすごい…そしてそりゃ字数も嵩む…

49 21/09/02(木)02:09:09 No.841687513

ただ長いのではなく結果長くなってしまった、って文章なら大歓迎だ

50 21/09/02(木)02:13:21 No.841688051

ここが区切り!って考えて書くから文字数嵩んでも切り所が無いんだよねえ 理解み

51 21/09/02(木)03:00:13 No.841693631

でもフラワーは栗東寮でウンスは美浦寮なんだよな…

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