ここでは虹裏imgのかなり古い過去ログを閲覧することができます。
21/07/04(日)21:50:50 No.820140333
適切な距離感、というものが重要だという。 ウマ娘と専属トレーナーの関係のことだ。新人トレーナーと、レースの世界へ脚を踏み入れたばかりのウマ娘の組み合わせは特に危険だ。引くべきところを見誤ると、双方の人生がめちゃくちゃになる。 俺も多少の自覚はあった。いい年こいて発破をかけたいがために海に飛び込むとか、学生たちの熱血テンションに毒されたとしか思えない。 それでも、彼女の秘めた闘志をちゃんと理解してコントロールできていると、いい関係を作れていると思っていたのだが。 結論から言うと、俺はしっかり入れ込みすぎていた。 秋天で壁を壊し、そして有マ記念で念願の勝利を勝ち取った我が担当バ。セイウンスカイ。 しかし、URAF予選に向けてのトレーニング中に、紙一重で逃げ切ったと思った致命的な故障に捕まった。重度の疲労骨折。 俺のせいだ。「有マに出たい」。珍しく彼女があらわにした勝利の渇望に、すっかり彼女というステイヤーに入れ込んでしまっていた俺は、一度は提案した「正しい判断」を曲げて首を縦にふってしまった。
1 21/07/04(日)21:54:49 [s] No.820142481
少しずつトレーニングを再開して、再びレースに復帰できる兆しが見えてきたときには、とっくに春は終わって初夏が近づいていた。 彼女はずっと気落ちしたままだ。俺にも、同級生たちの気遣いにも、力なく笑うだけ。突き抜けられない壁ができていた。 そんなときだった、いつかの温泉旅行券を見つけたのは。 『……じゃあ、約束してください。がんばったらちゃんと、温泉連れてってくれるって。』 「ちょっと季節外れだけど、まだ間に合うから」 「それって…骨折の湯治ってことですか?それともメンタルヘルス的な方で?」 スカイは喜びも怒りもせず、ため息をつきそうな物憂げな様子で応じてくる。 「気分転換だよ。誰か友達と行ってきたら」 「…いやです。約束は、ちゃんと思い出してくれなきゃ」 「覚えてるよ、俺が旅行中スカイのこと全部世話するんだよな。でも」 胸が痛む。無邪気になつかれていたあの頃ならともかく、今はもう、俺と一緒じゃ気が休まらないんじゃないのか。
2 21/07/04(日)21:55:28 [s] No.820142844
彼女の手がテーブル越しに伸びてきて、旅行券を差し出す俺の手を一瞬強く、掴んで。 「逃げないで。お願いします。トレーナーさん」 顔を伏せたままそれだけを言って、彼女は足早にトレーナー室出ていった。 *** 「着いたぞ、スカイ」 「うん、いい感じですね」 「温泉にも期待がもてそうだな!」 二人とも、つとめて明るく振る舞うが、どこか上滑りするような空気だ。ここまでの道中もけっして楽しく会話が弾むというわけではなかった。 寮に迎えにきた俺に大きめのキャリーケースを黙って差し出し、俺の買ってきた駅弁を黙々と食べ、俺の差し出すネックピローでうたた寝をしていた。 その合間合間に何か言いたげな視線を俺に向けながら、俺が目を合わせる前にそらしてしまう。 少なくとも、拒絶されていない、のは分かる。…何はともあれ、目的の温泉だ。
3 21/07/04(日)21:55:43 [s] No.820142979
『逃げないで。お願いします。トレーナーさん』 以前なら「美少女と一緒にデートなんですよ?喜んでついてきてくれなきゃ☆」とか言うところがあの有様だ。とはいえ、俺と出かけたい部分は嘘ではないのだろう。競技者としての将来や、トレーナー契約について話しあいたいのかもしれない。 温泉と夕食の後、部屋でそんな物思いに耽っていると、スカイからメッセージが入った。 『ちょっと今から部屋に来ていただけませんか』 『もちろん、すぐ行く』 少女の部屋に行くという事実に一瞬、躊躇しそうになるのを振り払う。メンタル参ってる愛バが呼んでいるのに何を下世話な。変態か、お前は。
4 21/07/04(日)21:56:33 [s] No.820143441
「どーも…」 スカイはレースの勝負服を着ていた。一泊には少し大きいキャリーケースの中身が唐突に明らかになった。 「いや、そんなまじまじ見ないでくださいよ…。そりゃ競技場以外で着てると私も変な感じですけど。どう、懐かしいでしょ?」 「言うほど経っちゃいないよ。それにまたすぐ着れる」 「あのね、実はセイちゃん、あなたに告白するつもりでした」 下手くそに慰めようとする俺から、ふい、と目をそらして、突然の言葉が叩きつけられる。 告白?するつもり?でした? 「ご存知です?URAFの後で踊る曲。当然知ってるか。投げキスの振りつけとか、大好きだよ、なーんて、あからさまな歌詞があって…」 ぽつぽつと言葉をこぼしながら、軽くステップを踏みはじめる。 レッスンルームでダンス講師と練習していたのを見ている。URAF専用曲の、センターの振り付けだ。 「URAF優勝して。ライブで気持ち高めて」
5 21/07/04(日)21:57:26 [s] No.820143876
本来四人で泊まれる十畳のがらんとした部屋に向かって、存在しない満員の観客に向かってゆるく手をふる。 「ご褒美の温泉旅行で急接近して。クリスマスよりも、もっとばっちり雰囲気作って」 どんな歌詞だったか。脳天気なほどの高揚感に溢れた、愛バの走る姿に胸が高鳴る、みたいな。 「照れくさいことも冗談にして逃げないで、まっすぐ言うんだ、なんて」 最後にポーズを取ろうとして、わずかによろめくのを、思わず歩み寄って肩を掴んで支える。 「浮かれてましたね。全部ばかみたいな怪我で台無し」 思ったより近くで顔が向き合い、彼女は目をそらす。頬が上気している。 「おっと、それはURAF前の話です。病院のベッドで色々考えてたら、今はなんだか… うん、もう好きなのかもわかんなくなっちゃいました。 結局、勝負の高揚とか、二人三脚の信頼感とかがごっちゃになって、浮かれてただけ、なんですよ」
6 21/07/04(日)21:58:32 [s] No.820144443
「だとしても、うれしいよ」 身を引きそうになる彼女を引き寄せると、恐る恐る、という様子で、背中に腕が回される。 「今さらそんなこと言うなんて…ずるい、ですよ」 そのまま、そっと顔を俺の胸元に隠すようにして、言葉をこぼす。 「覚悟、揺らいじゃうじゃないですか。もういいんですよ。あなたとお別れしたいんです。もうこれ以上、全盛期終わっちゃったウマ娘に付き合う義理なんて」 ないんですよ、と消え入るようにつぶやいた言葉は涙で震えている。 腕の中に収まる小さな彼女。この状態は適切な距離感どころではない。でももう、それでいい。 「スカイ、バカだな。俺はトロフィーじゃないのに」 「勝ったから答えてくれるなんてことないのは、知ってますよ? URAF勝ったら告白なんてのは勢いつけたいだけのことで」 「違うよ。勝たなくたって、怪我したって、選択を間違ったって、俺は君のパートナーで、君が俺に飽きるまで付き合うよ。リハビリして立ち直って、それで結局、一度も勝てなくたっていい。俺のことが好きでも嫌いでもいい。正直な気持ちを言ってくれ」
7 21/07/04(日)22:00:09 [s] No.820145247
「トレーナー、さん」 背中に回された手に力がこもる。俺も応えるように彼女を抱きしめる。 「……私と一緒にいてください」 *** これで何もかもめでたしめでたしになるわけではないが、少なくとも見失っていた距離感を確かめ直すことができた気がする。 この先彼女が復帰できるのか、そのまま引退するのかは未来のみぞ知るが、どんな結末になっても後悔は無いだろう。 このまま別々の部屋で寝るのは素っ気ないが、かといって同じ部屋で寝るのも不適切だ。 俺はなし崩しだけは許さないのだ。 結果、中途半端なことに、俺はスカイの布団の横に座布団の枕で寝そべって、彼女が寝入るのを待っている。そのはずなのだが、俺の右手は彼女にずっと握られている。
8 21/07/04(日)22:00:28 [s] No.820145417
「ねえ、頭、撫でてください」 スカイは遠慮の枷が爆発して甘えたになってしまった。おとなしく寝るどころか次から次へとかまってほしがる。こんなに彼女は過去も見たことはない。 体勢を変え、薄く青みがかったふわふわの芦毛を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。 「んっふふふー。あっそうだ、さっきからずっと考えてたんですけど、好きでも嫌いでもいい、ってのはいただけませんよ。そこははっきり、もう一度セイちゃんを惚れさせてください」 「いやそれは……そういうの言っちゃダメだろ、俺の立場で」 「ということはー、抱きしめあったり、添い寝しちゃうのは立場的にもアリなんですか?良いことを聞いちゃった☆」 「…これも本当は不適切だぞ。仮に君が惚れ直してくれるとしても、何かこう……そういう仲になるとしたら、引退して、卒業してからだ」 渋々答えると、適切な距離感分かってるひとですものね、と含み笑いをするスカイ。 「帰り道、楽しみだね」 そう、まぶたを閉じてつぶやいた。
9 21/07/04(日)22:02:53 [s] No.820146805
有マ記念前あれ絶対曇る前振りだよな…とずっと気になってたので書いた この後覇王に挑みつつ早々に引退卒業してくっつく
10 21/07/04(日)22:03:06 No.820146920
ああ可愛い…いい…
11 21/07/04(日)22:03:46 No.820147250
適切な距離感のしっとりセイちゃんいい…
12 21/07/04(日)22:04:07 No.820147435
重くつらくも可愛い
13 21/07/04(日)22:04:39 No.820147736
全部さらけ出してそれでもくっつくのはセイちゃんらしいしセイトレらしいよね…
14 21/07/04(日)22:05:14 No.820148099
名文すぎる……
15 21/07/04(日)22:05:24 No.820148194
原作路線だとセイちゃんまた沈みそうだけど、トレーナーさんがうまく支えてあげて欲しい
16 21/07/04(日)22:05:51 No.820148455
この書き出しで本当に在学中適切な距離感を保ってるの初めて見た
17 21/07/04(日)22:07:54 No.820149516
かわいい…しっとり…かわいい