ここでは虹裏imgのかなり古い過去ログを閲覧することができます。
21/05/23(日)02:19:30 No.805537956
「アイドルが、誰かに惚れてよいものか、でありんすか」 ゆうぎりがゆっくりと繰り返すと、純子はこっくり頷いた。デッキに吹き込む夜風が、ゆうぎりの吐いた煙管の煙を散らし、ほどけた髪を優しく撫でた。 「ああ!あの時の話でありんすね」 眠れぬ夜の閑話には、丁度良い話題かもしれない。
1 21/05/23(日)02:19:46 No.805538016
椅子に身を預けるゆうぎりの紅の目には、手すりにもたれて、遠くを見つめる純子の横顔が映っている。 「わっちは、リリィはんの言いんした通りと思いんすよ。自分を好いて下さるおかたを好くのは、当然のこと。好いたおかたのために、随分身を尽くすのも、当然のこと。昔に、教えられんした」 「応援してくれるファンの皆さんがいるからこそ、コンサートで力を尽くせる、という話なら、分かります。アイドルは元々、ファンの期待に全力で応えるものです。でも、私が誰かを好きになることと、私がアイドルであることが両立するのか、まだはっきり確信が持てなくて……」 ころころと笑う声に耳をくすぐられ、純子はゆうぎりの方を向いた。 「面妖なことをおっしゃりんす。純子はんなら、とうに得心しているものと思いんしたが」 「得心……?」 首を傾げた純子に、ゆうぎりはこともなげに言う。 「どちらも出来るに決まっておりんすよ」 「いや、ですから、私としてはアイドルとして恋愛は……」 ゆうぎりは笑うばかりである。 「リリィはんが、自分の父君のために、幸太郎はんに歌を作っていただきんしたね。純子はんも賛成していんした」 「それは、まあ」
2 21/05/23(日)02:20:42 No.805538224
「リリィはんが、一人きりの親への礼を歌うのは良し。サキはんが、惚れた相手の歌を継ぐのも、良し。なら、純子はんの答えはもう出ているでありんせんか」 ゆうぎりは椅子を立ち、静かな蓮の歩みを進め、純子の顔を覗き込んだ。 「い、いや私は、あの二人みたいに出来るのか、分からなくて……実を言うと、怖いんです。少し」 「純子はん。わっちらは、アイドルの前に人間でありんす。床の間の人形と違って、血の通った……あれま」 仰々しくさえある嫋やかな動きで、ゆうぎりは口に手を当てた。純子は苦笑を浮かべて、十八番の台詞を口にのぼせた。 「……もう死んでますけどね」 「ま、ともかく、どんな人も、親を持たずにはおれぬもの。惚れることも、止められんせん。やってくるものは、やってくるのでありんすよ、純子はん。それに」 「それに?」 「自分の胸にだけ秘めておけば、誰にも分かることはありんせん。口に出したその言葉が、ほんに惚れた方だけへの想いからなのか。お客みなへ向けられたものか。はっきりと、言葉にさえしなければ」
3 21/05/23(日)02:21:39 No.805538410
ゆうぎりは微笑んだ。 「言葉にしなければ、自分すら騙せるものでありんす」 キセルを口元に運び、また煙をすうと吐いた。 「もう一つ。歌も、琴も、舞も。ほんにお好きなどなたかの名を、そっくり教えられるようには出来ておりんせんよ、純子はん。だから安心して、誰かを好きになりなんし」 「そんな、ものでしょうか……」 「わっちにとっては、そんなものでありんした」 ゆうぎりはキセルの背を指で叩き、灰を皿に落とした。 「さ、話は終わりでありんす。もう寝なんし」 「……そうですね」 部屋に戻るゆうぎりの背を見送る純子の髪を、また夜風が優しく撫でた。 ────────
4 21/05/23(日)02:22:05 [おわり] No.805538501
……といったような一幕が純子の脳裏にちょっぴりよぎったのは、演奏が終わって、幸太郎のエレキギターを振りかざしたときだった。 「でーえーりゃー!」 黒曜石のように澄み切った、力強い絶叫であった。幸太郎の孤独な半生を彩ったか弱きエレキィは、純子の想いに忠実に応えて、完膚なきまでに粉々に砕け散った。 折れ残ったネックを握りしめた純子の視線は、遥か先で立ちんぼしていた愛に向いている。 愛の隣には、自分と愛の絆を引き裂かんとした底意地の悪いふざけてばかりの飲んだくれグラサン男が愕然として崩折れているように見えるが、気のせいかもしれない。第一、純子には心当たりがまるでない。理由は全然分からない。原因なんてよく知らない。ないったらない。 (愛、お前は私だけのパートナーだ!) ただ一人への想いを込めた、純子渾身のパフォーマンスであった。よかったいよかったい。