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    21/04/26(月)23:36:30 No.796737674

    「……葵、別れよう」  彼の言葉が重く突き刺さる。昨日と同じテンポで伝わる、八つで文字で構成されるセンテンス。うそ、でしょう。私から漏れていく言葉に彼は首を振った。  卓上にことり置かれたブレスレットは、あの日の旅行で彼に見繕ったものに間違いない。大小様々なサファイアの煌めく豪華なアクセサリーは、反射する光も相まって悲しく見える。 「私、は別れたく、ありません……」  あんなに仲睦まじく暮らしてきたはずなのに、何がきっかけでこうなったのか。温もりを植え付ける暖色の蛍光灯が、なにか違うように思える。空気が痛く寒く辛く苦しい。温もりを与える薄いオレンジの照明すら、うら寂しく感じられてしまう。  娘以外に誰も訪れないこの個室で、あなたからいつかに貰ったお気に入りのネックレスを握りしめた。唇の裏側をぎしりと噛んで今すぐ溢してしまいたい涙を留める。君によく似合ってるよ、あのときそんな言葉と一緒に贈られたこのルビーのネックレス。肌に触れている部分が熱く感じられるのは、きっとこの子たちも混乱しているからなんだろう。彼は首をゆるく横に振り、諦めの乗った声色で言った。

    1 21/04/26(月)23:37:09 No.796737898

    「桐生院たるものウマ娘と高め合えることを至上の喜びとせよ。俺はそれを履行できないんだから、仕方無いよ」 「待って、そんなこと、ない! 家訓なんて今は関係ないでしょう!」 「ああ、そうだな……言い訳と建前でしかないよな。分かってる、だから尚更、すまない」  思い返せば、あれほど熱のこもった贈り物なんて初めてだった。貰ってすぐに身に付けて、私の胸元には桜が咲いたようにすら思った。ピジョンブラッドより深い紅の絆に、これからを生きる私たちの、強く固い結び付きを確かに感じていた。私は嬉しくて、とにかく嬉しくて、これからもずっとこの喜びと幸せが続いていくのだと盲目的に信じていた。 「考え直して……おねがい……」  震えてひずむ私の声。苦しみに喘ぐ赤いルージュ。テーブルの下に隠したもう片方の手は麻痺したよう。不愉快な響きが教えてくる、昔きらびやかだったこの宝石は、もうあのときのように光ることはないのだと。今ですら私の手のひらに包まれてさめざめと泣くばかりなのだから、彼が飛び去ったあとなんて目も当てられなくなるだろう。

    2 21/04/26(月)23:37:35 No.796738013

    「泣かないでくれ、頼む」  そう言われたって、困る。感情なんて予測のつかないものは、簡単に制御できないのだ。私が愛したこのひとは、私たちと私の気持ちを過去に捨てていこうとしている。反目するだけの材料なんてたったそれだけで十分だった。 「指輪。渡しあっていなくて、良かった」  恨み言を呟くつもりは無かったのに。私が抱えた一生の未練がコントロールできないまま外に転び出る。彼は視線を数回迷わせたあと、手元のグラスをぐいと呷った。 「……そう、かもな。指輪があると葵を引き留めてしまいそうだから」  私は彼のことが変わらず好きだ。今までも、きっとこれからも。彼が変わってしまったとしても、彼のことを好きになった過去が変わるわけもなく、嫌いになる要素も無いのだから。もっと強くこちらから引き留めなければ。卑怯で意地悪な質問と分かっていてなお、私は未来のため彼に訊ねざるを得ない。 「私のこと、あの子のこと、きらいになったんですか……?」

    3 21/04/26(月)23:38:14 No.796738201

    「違うよ。変わらず、好きさ。だけど君に、おれ……いや、今の僕は似合わない。僕はもう、君たちのそばにいていい人間じゃない」 「馬鹿なことを言わないで、一人で納得しないで下さい……!」  悲しみよりも先に怒りが込み上げて、流れるまで秒読みを切っていたはずの涙が自然と引っ込む。 「だいたい私、よりも、あなたはお父さんなんですよ……!」 「……すまない、毎月ちゃんと養育費は渡す。君と家が許してくれるなら、あの子にも会いに来たいと思う。君も嫌だろう、こんな僕と一緒にいるなんて」 「そんなこと、ありません!」  自分でも驚くような大きさの声に思わず口許を手で覆う。からん、ロックグラスに入った氷が無色の壁面を叩く。彼はひどく悲しそうに眉を下げて私に言った。 「ごめん。駄目なんだ、限界なんだ、もう。君にもあの子にも渡せるものがない。僕は大したやつじゃない。後ろ指を指されることばかりしてきたバカみたいな自負がある。ひどい買いかぶりなのさ、みんな」 「待って、待ってよ」 「俺たち、から。ただの同期だったあの頃に戻ろう。責任感のない男ですまない、こうして頭を下げることしか……」

    4 21/04/26(月)23:39:14 No.796738541

    「お願いだから待って下さい!」  都合四度目の待ってくれに、リビングがしんと静まる。 「どうして私の話を聞いてくれないんですか。あなたが一体何をしたと言うんですか、内向きの感傷に浸る前に、私とあの子の気持ちを……!」 「あいつの人生を死なせてしまった僕なんかに……誰の願いも叶えてやれないこんな僕が! どの面下げて君たちの前に居ればいいと言うんだ!」  冷えきった空気を裂くように彼の口はわななき、彼自身の秘めたタブーを語らせる。 「ウマ娘を指導するたびに思い出すんだあの日のことを。君だって覚えているだろ……?」 「二年前の、有馬……」  私の記憶にもある『あの日』の出来事。悔恨の理由を呟くと、彼は静かに目を瞑った。連日の雨によってひどい重バ場となっていたあのレース。思い出すだけでも苦しくなる、千六百メートル地点での悲劇。 「あなたのせいだけでは……」 「そうかも知れない。でも、幾らでも回避する方法はあった。目先の勝利に飛び付こうとして取り返しの付かないことをした」 「そのための贖罪、なんですか」

    5 21/04/26(月)23:39:35 No.796738659

     私が絞り出した言葉に彼は頷かなかった。 「それだけじゃないさ。君たちと家族でいることは、ウマ娘たちの事柄と切っても切れない関係であり続けることに同義だ。僕にはどうしても耐えきれそうにない。そして、僕の拘りに君たちまで巻き込むことはできない。中途半端じゃ誰も幸せになれない。だから、こうするしかないんだ」  どうかわかってくれ葵、そこまで言って彼は自分の目元を掌に隠した。ああ、そこまで限界だったのだ、私は何故気付いてやれなかったのだろう。きっと、当たり前のことだと思い過ぎていたのだ。私たちの娘なんだから、必ずや桐生院の想いを継いでくれるのだと。苦しそうに、そして忌々しげに彼が想いを吐露するまで、私は一切疑いもしていなかった。『私たち』の人生のレールに、あの子を乗せていくことに。  ごめんなさい、音を立てて壊れていく幸せと共に、用途不明の謝罪が口を吐いて出る。君のせいじゃないよ、彼はひどく形式ばった慰めを口にする。私のせいでないならば、一体誰のせいなのか。きっと誰のせいでもない、ただひたすら運が無かったのだ、私たちは。 「先に寝るよ。明日には出ていくから安心してくれ」 「ええ……」

    6 21/04/26(月)23:40:33 No.796738992

     彼は私に背を向けて、寝室へと踵を返す。扉と部屋の隙間に身体が消えていく。無言のまま見送って、やがて扉は隙間を無くした。深く溜め息を吐きたいのに、喉の付け根でつっかえるのは何故だろう。もういい、考えたくもない、誰も居ないのだから関係ない。私は思うさまだらしなく机に突っ伏した。  彼がトレーナーという職業に絶望を感じなければ、こうはならなかったのか。醜いイフストーリーであることぐらい分かっている。それでもすがりたくなるのだ。私は決して悪者なんかでは無いのだと責任転嫁しなくては、私はこの喪失に堪えられそうに無かったのだから。  彼をこの家庭に繋ぎ止めておけなかったのは、私の過失でしか無いのだ。私たちのボタンが掛け間違ってしまった日。彼の担当が事故で選手生命を失ったあの日を境に、彼の心はぽっきりと折れてしまった。その時からきっと私も背負っていたのだ。私たちに忍び足で迫る、別れの名をした暗がりの怪物。それに気付こうとしてこなかったという罪を。

    7 21/04/26(月)23:41:18 No.796739264

     彼が立ち去った、この思い出のリビングで。私は一人氷の溶けきったグラスを傾ける。先程までずっと目減りしていなかった、彼手製のアメリカーノを一気に流し込む。酔いたい。酔わなきゃやっていられない。飲み込もう、駄目だ上手く飲み込めない。口端からわずかに溢れたダークブラウンが、唇と顎に湿り気を与えた。 「酔えない……」  普段なら缶チューハイ一本で酔える私なのに、今日は一向に酔いが回ってこない。ただ、ひたすらに頭が痛く熱い。涼を求めテーブルに額を合わせると、情けなさからだろうか、私の目尻に辛うじて留まっていたものたちが一斉に溢れ出していく。

    8 21/04/26(月)23:41:35 No.796739349

    「ミークに、会いたいなあ……」  虫の良いことだけれど、誰かに甘えるだけ甘えて、他人が介在出来ない場所まで逃げてしまいたい。こんなこと考えて、ばか、トレーナー失格だ。嗚咽が漏れる、溜め息が熱い、濃密な夜の匂いにむせかえりそうだ。もう寝てしまおう、もうこのままでいい。どうせ深くは眠れないから、誰だって気に留めやしないよ。  明日の朝、いつものように彼の手が、私を微睡みから揺り起こしてくれるのを期待しながら、ようやく回ってきた酔いに身を任せ私は今日を眠らせた。明日は見ない、考えない。私に出来る選択はそれだけだ。

    9 21/04/26(月)23:52:21 [s] No.796742736

    >私たちの娘なんだから、必ずや桐生院の想いを継いでくれるのだと。苦しそうに、そして忌々しげに彼が想いを吐露するまで、私は一切疑いもしていなかった。『私たち』の人生のレールに、あの子を乗せていくことに。 ここプロット段階で消し忘れてたー!申し訳ない!無視して読んでほしい!

    10 21/04/26(月)23:59:16 No.796744861

    寝る前だってのにヘビーなモン読ませやがって!

    11 21/04/27(火)00:01:56 No.796745713

    ずーんときて私の性癖にはあってますよ

    12 21/04/27(火)00:10:07 No.796748512

    こういうのも似合うなコイツ

    13 21/04/27(火)00:13:12 No.796749607

    月曜日の夜には重バ場過ぎるよ!

    14 21/04/27(火)00:30:04 [s] No.796755253

    今日が月曜と言うことを忘れていた!失敬ッ!読了については感謝ッ! ミークの力でこっから良バ場になるから大丈夫だよ多分