ここでは虹裏imgのかなり古い過去ログを閲覧することができます。
18/04/10(火)21:37:10 No.496848718
私は長い土手を傳つて牛窓の港の方へ行つた。 暫らく行くと土手の向うから、紫の袴をはいた顏色の惡い女が一人近づいて來た。さうして丁寧に私に向いて御辭儀をした。私は見たことのある樣な顏だと思ふけれども思ひ出せない。私も默つて御辭儀をした。するとその女が、しとやかな調子で、御一緒にまゐりませうと云つて、私と竝んで歩き出した。 すると入江の蘆の生えてゐる上に、大きな花火が幾つも幾つも揚がつた。女がその方を指しながら、 「あの邊りはもう日が暮れてゐるので御坐います。早く參りませう。土手の上で夜になると困りますから」と云つた。 暗くなりかけた浪がしらに薄い紅をさして不思議な色に映えて來た。女は沖の方を指しながら、 「沖の方も、もう日が暮れてゐるので御坐います。早くまゐりませう」と云つた。 入江の向うの遠くの方から、紙の燒けた灰の樣なものが頻りに海の上の赤い空へ飛んだ。 「あれは海の蝙蝠で御坐います。もうここも日が暮れるので御坐います」と女が云つた。 土手の上が暗くなつて來た。私は心細くなつた。女の淋しさうな姿丈が、はつきりと私の目に映つてゐる。
1 18/04/10(火)21:37:45 No.496848897
私はこの陰氣な女と一緒に行つて、碌な事はない樣な氣がし出した。けれども一筋道の土手の上で、道連れを斷るわけには行かないから、默つて歩いて行つた。すると道の片側がばうと明かるくなつて來た。驚いてその方を振り向いてみたら、蘆の原の彼方此方に炎の筒が立つていて、美しい火の子がその筒の中から暗いところへ流れて出ては跡方もなく消えてゐる。その邊りの空には矢張り花火がともつたり消えたりしてゐた。花火の火の玉が蘆の中に落ちたんだらうと、その景色に見惚れながら私は思つた。 「左樣で御坐います。今にここいら一面が燒けて參りますから、早くまゐりませう」と女が云つた。 土手の妙な所から、女が入江の側に下りて行つた。私もその後をついて下りた。もう向うには、牛窓の港の燈がちらちら光つてゐるのに、女と離れられない。私はその燈を見ながら、女について行つたら、淺い砂川のほとりに出た。女がそのほとりを足早に傳つて行つた。暫らく行くうちに、砂川はじきに消えてしまつて、長い廊下の入口に出た。
2 18/04/10(火)21:38:46 No.496849219
私はもう行くまいと思ひ出した。そう思つて女の方を見ると、女は涙をためた目でじつと私の方を見ながら默つてゐる。私は引き込まれる樣な氣持がして、女について行つた。 廊下を歩いて行くと、段段狹く暗くなつて、足もともわからなくなつた。女と私が次第に押しつけられる樣になつて來た。私は段段息苦しくなつて、もう歸り度いと思つた。すると左側に廣い白ら白らとした坐敷のある前に來た。その次にもまた坐敷があつた。その坐敷の本當の眞中に、見臺がきちんと据えてあつて、その上に古びた紙の帖面が一册擴げてあつた。私が何の氣もなくその方を見てゐると、女が、それを讀んでくれれば何もかもわかると云ふ樣な風に見えた。私はあわてて、目を外らしてその前を行き過ぎた。何だか非常に怖いものに觸れかけた樣な氣持がして心が落ちつかない。もう歸らうと思つた。すると女が私の前に跪いて、しくしく泣きながら私の顏を見た。 「もう土手は日がくれて眞暗でございます。どうかもう少し私の傍に居て下さいませ」と女が云つた。私は默つて、歸る事を考えながら立つてゐた。何處かでさあさあと云ふ風の渡る樣な音が頻りに聞こえた。
3 18/04/10(火)21:39:03 No.496849298
「蘆の原に火がついて、もう外へは出られません。あれは蘆の莖が何千も何萬も一度に燒け割れてゐる音で御坐います」と女がまた云つた。けれども私はもう歸らうと思つた。こんな女の傍にゐるのは恐ろしい。 すると女がまた云つた。「土手は浪にさらわれてしまいました。もう御歸りになる道は御座いません」 さう云つてしまふと、俄に大きな聲を出して泣き始めた。さうして、顏を縁にすりつける樣にうつ伏せになつて、肩の邊りを慄はせた。私はその間に歸らうと思つて、そこからもとの廊下に引き返しかけた。その時に、私はふと縁にうつ伏せになつてゐる女の白い襟足を見入つてゐた。女は顏も樣子も陰氣で色艷が惡いのに、襟足丈は水水していて云ひやうもなく美しい。私は、不意に足が竦んで、水を浴びたやうな氣持になつた。私はこの襟足を見た事があつた。十年昔だか二十年昔だかわからない。どこかの辻でこの女に行き會い、振り返つてこの白い襟足を見た事があつた。ああ、あの女だつたと私が思ひ出す途端に、女がいきなり追つかけて來て、私のうなじに獅嚙みついた。
4 18/04/10(火)21:39:20 No.496849375
「浮氣者浮氣者浮氣者」と云つた。 私は足が萎へて逃げられない。身を悶えながら、顏を振り向けて後を見ると、最早女もだれもゐなかつた。それのに、目に見えないものが私のうなじを摑み締めてゐた、私は身動きも出來ない、助けを呼ばうと思つても、咽喉がつかへて聲もでなかつた。
5 18/04/10(火)22:27:29 No.496863883
ちんちん