17/09/02(土)19:51:35 北大路... のスレッド詳細
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画像ファイル名:1504349495881.jpg 17/09/02(土)19:51:35 No.450342855
北大路魯山人 士族の家柄だったものの生活は貧しく、その上版籍奉還2年後の明治4年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されため混乱期にあった。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4ヶ月前に自殺する。母・登女は坂本(現・大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪する。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰る[1]。出生から5ヶ月後の明治16年9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。しかしこの2ヶ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になる。同年秋に巡査妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになる
1 17/09/02(土)19:53:57 No.450343447
そのころ義兄に精神異常が出てその後死亡。1887年頃房次郎4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる。この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受ける。2、3ヶ月後、これを見かねた近所の人が竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかける。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から炊事を買って出る。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいく
2 17/09/02(土)19:54:49 No.450343696
長い 30行にしろ
3 17/09/02(土)19:55:49 No.450343960
20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れる。彼により母の所在を知る。実の母の居所が分かり、東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志す
4 17/09/02(土)19:57:06 No.450344285
1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。 この頃実母登女との関係も良くなっていく。 1916年、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗る。
5 17/09/02(土)19:57:50 No.450344480
、1921年(大正10年)、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり[3]、会員制高級料亭を始めた。
6 17/09/02(土)19:58:12 No.450344566
魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。
7 17/09/02(土)19:58:34 No.450344667
戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させた。1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。
8 17/09/02(土)19:58:50 No.450344742
>長い >30行にしろ 納豆は400回かき混ぜろ
9 17/09/02(土)19:59:01 No.450344786
1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変[4]のため横浜医科大学病院で死去。
10 17/09/02(土)19:59:17 No.450344855
1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。
11 17/09/02(土)19:59:52 No.450345012
人物 魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。
12 17/09/02(土)20:00:16 No.450345109
6度の結婚(1908年、17年、27年、38年、40年、48年)はすべて破綻、2人の男児は夭折した。娘を溺愛したものの長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオやテレビのホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという
13 17/09/02(土)20:00:36 No.450345199
美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった
14 17/09/02(土)20:00:55 No.450345277
海原雄山のモデルとして知った人が多い
15 17/09/02(土)20:00:58 No.450345291
つねに傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王・吉田茂などから愛されもした
16 17/09/02(土)20:01:18 No.450345366
気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていた手伝い曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それができなくて叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。
17 17/09/02(土)20:01:35 No.450345440
周りの人死にすぎじゃない?
18 17/09/02(土)20:01:38 No.450345457
阪急電鉄の創業者・小林一三は、阪急百貨店で魯山人の個展を開いていた。その折、小林は、魯山人に対して、「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。これに対し魯山人は、1943年(昭和18年)10月19日付で小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに、同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会中止を申し出た
19 17/09/02(土)20:02:48 No.450345773
特に90年代に入ってからはエロゲを愛し地元にご当地エロゲを定着させようと尽力した。
20 17/09/02(土)20:04:33 No.450346210
何だこの…
21 17/09/02(土)20:04:51 No.450346293
家族運が致命的に無い
22 17/09/02(土)20:09:06 No.450347335
ミル貝のコピペか
23 17/09/02(土)20:09:22 No.450347421
はい
24 17/09/02(土)20:12:27 No.450348225
延々コピペ貼って何がしたいんだ?
25 17/09/02(土)20:22:39 No.450350693
アドレスだけでいいんじゃねえの
26 17/09/02(土)20:25:45 No.450351492
お客様か?
27 17/09/02(土)20:27:15 No.450351988
>納豆はお茶漬けにしろ
28 17/09/02(土)20:37:26 No.450354455
岡星さんってそういう由来の名前だったんだ
29 17/09/02(土)20:42:40 No.450355775
たにしだいすき
30 17/09/02(土)20:43:55 No.450356085
怖いからdel
31 17/09/02(土)20:44:43 No.450356272
ワレワレ ハ ロサンジン ダ
32 17/09/02(土)20:47:35 No.450357019
貼りたいから貼る 理由なんてそれで十分
33 17/09/02(土)20:48:58 No.450357351
十分じゃねえよ連投del