虹裏img歴史資料館

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17/05/14(日)21:08:12 暗い、... のスレッド詳細

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画像ファイル名:1494763692235.png 17/05/14(日)21:08:12 No.427108889

暗い、月明かりのない夜の小道を、道連もなく、提燈一つだけ持つて歩いてゐた。 道沿ひに黒い石造りの塀が續いてゐて、提燈の火が塀の上に私の影をばうと映してゐた。 一刻ほど歩いてゐると、向ふから人が立つてゐるのが見えた。そして、私を見るなり、「今晩は」と云つた。まだ若い女の子で、右手に提燈だけ持つて、他には何も持たなかつた。私が持つのとそつくり同じやうに、眞新しい赤くて小さな提燈だつた。 私が默つたまま輕く會釋をすると、女の子は「いい夜ですね」とまた云つた。 別に、今通りすがつただけの見ず知らずと話し度いわけでもないので、「ええ」とだけ云つて通り過ぎようとすると、女の子が「お急ぎですか」と尋ねてきた。 私が何も云はないでゐると、女の子は「この先は道が細くて危のうございますから、案内いたしませう」と云つて、踵を返して、私の前を歩いていつた。「いいのかい、行き先が君と私では反對なのだらう」と云ふと、「これでいいんです。こちらにいらした方を案内するのが、私の務めです」と返された。云はれてみると、女の子はずつと人が來るのを待つてゐたやうだつたから、默まつて女の子の後について行くことにした。

1 17/05/14(日)21:08:35 No.427109019

途中、足場が惡くなつて、ごつごつした岩肌のやうなものに足を取られて何べんも轉びさうになつた。遂に前に倒れさうになつて、女の子が私の手をとつて助けてくれた。私が觸れたその手は、冷たくしつとりした粒の細かい粘土のやうだつた。女の子はそのまま私の手を引いて、着々とした足取りで先へ進んで云つた。私は女の子と手をつないで歩いたことがなかつたから、俄に自分の顏が紅潮するのを感じた。それとともに、女の子が餘りに大膽なのに驚いて、私は怪しい氣持になつた。人氣のない夜道で、若い女の子が行き違ひの男と二人きりになつて、自分からこんなことを話しかけて來るのは、いかにもふしだらに思はれた。しかし、女の子は頭に白い手拭ひを卷いて、臙脂色の作務衣を着てゐたから、夜鷹の類ではなかつたし、提燈の火二つしかない暗い道と云ふのに、その女の子の姿だけは何だかはつきりと、清らかに見えた。さうして段々變な氣持ちがしてきて、かう尋ねた。 「君は、怖くないのか」 「何か怖いことがあるのでせうか」と女の子は答へた。

2 17/05/14(日)21:08:52 No.427109122

「だつて、君みたいな女の子が、夜道に知らない男と二人ぎりで歩いてゐて、恐ろしくはないのか」 「お祖父ちやんと一所で、何が恐ろしくありませう」 「なんだつて」 「お祖父ちやんと孫で歩いてゐて、恐ろしいことなどあるものですか」 「だつて、君は、私と二人ぎりなのに」 「ええ、ですからお祖父ちやんと、私の、二人」 女の子は私の目を真つ直ぐ見て、實に當り前らしく云つた。 女の子の云うお祖父ちやんは、私の事だつた。 「そんな。私は妻も子もないのに」と私は云つた。私は童貞だつた。 「ええ、ですから、私は生まれてゐない孫ですよ」 さう云つて、女の子は徐に左手で自分の上衣の裾を臍のあたりまで上げて、自分の肌を私に示してみせた。臍の右脇に小さな黒子が縱に二つ竝んでゐた。 「ほら、お祖父ちやんと同じところに黒子があるでせう」 私は思はず目を背けた。女の子の肌を見るのが恥づかしかつたが、それにも増して恐ろしかつた。 すると、女の子は、私に向かつて一、二歩寄つてきて、先ほど自分にしたのと同じやうに、私の上衣の裾を上げて、「ね、あるでせう」と云つた。

3 17/05/14(日)21:09:11 No.427109203

恐る恐る目を下に遣ると、女の子の云ふとほり、私の臍の右脇にも小さな黒子が縱に二つ竝んでゐた。私はこんなところに自分の黒子があるのを見たことがなかつたから、愈怖ろしくなつた。怖ろしかつたが、段々と、確かに自分に生まれていない孫があつて、前にも孫と二人で歩いたやうに思はれた。それで、無性に孫の名前を呼び度くなつた。頭の中で孫の名前がぼんやりと思ひ出されてきて、喉の先まで出かかつてゐた。 「ああ…」 聲を出してみて、私はその自分の聲に驚いた。嗄れ切つた老人の聲だつた。それを聞いて、ひと時のうちに自分がひどく年寄りになつたやうに思はれた。さつきまで出かかつてゐた孫の名前も、頭の中が呆けてしまつたやうで、分からなくなつてしまつた。そのうち自分の手と足が乾いてひび割れた木の肌のやうになつていつて、やがて透けて見えて來るやうになつた。私は、遂に生まれてゐない孫の名前を呼んでやれないまま消えてしまふことが悔しくてならなかつた。せめてもう一言でも孫と話をし度かつたが、聲を出す前に、私の體はすつかり消えて、夜風に流されてしまつた。

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