17/03/25(土)22:57:35 春の末... のスレッド詳細
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画像ファイル名:1490450255074.jpg 17/03/25(土)22:57:35 No.416859700
春の末らしかつた。あたたか過ぎる日の午後、空一ぱいに薄い灰雲が流れて、ところどころ、まだらなむらが出て居た。風が坂の上から吹き上げた。私は風を嚥みながら坂を上つて行つた。 すると、坂の途中の横町から、ひよこりと爺が出て來た。爺の後から若い女の子がついて來た。赤い帶をしめて、片手に風呂敷包を抱へて、爺の足許を見ながら歩いて行つた。 私は女の子の後を追ふた。足を早めて行くとじきに、爺から女の子と、女の子から私との距離が同じくらゐになつた。それから又段段と女の子に近づいて來て、たうたふ私の手が女の子の袖に觸れさうになつた。すると女の子は後を向ひて、泣き出しさうな顏をして私を見た。私は今はいけないんだなと思つて、そのまま手をひいて、おとなしく、そつと女の子の後について行つた。 うねうねした道を風に吹かれて行くと、何時の間にか町が盡きてしまつて、妙な野原に出た。その中に背の低い松が浮き上がつたやうに鮮やかに樹つてゐる。爺と女の子がその松の方へ歩いて行つた。私はこんな原を渡つて行く爺の思はくが解らなくて、少し不氣味になつて來た。
1 17/03/25(土)22:58:03 No.416859858
けれども、私は休まずについて行つた。邊りにはなんにもなく、又誰もゐない。ただ一本の松の樹の方へ爺と女の子が行く丈である。私は早く爺から、女の子を引き離し度いと思ふ。しかし爺は時時振り返つて、女の子の方を見た。さうして女の子は素直に爺について行つた。さつきからあんまり爺と離れもしない。私はもしかすると、女の子が私を捨てるつもりなのかも知れないと思ひ出した。 私はまた足ばやになつて、女の子に追ひついた。さうして、もう一度彼女の袖を引いて見た。女の子はまた泣きさうな眼をして私を拒み、さうしてすたすたと爺の後を追ふた。私はこの原で爺を殺してしまはうと思つた。
2 17/03/25(土)22:58:35 No.416860062
私は爺を殺す機會をねらひながら、後をつけて行つた。すると空が段段薄暗くなつて來た。私は、「造化精妙」と考へて次第に爺に近づき、かたつと一打ちに爺を殺した。爺は手も足も折れて、死んでしまつた。それから私は女の子の傍に行つて、その手を握つた。女の子の手は、柔らかくてあたたかい。握つたところから女の血が傳はつて、私の手が重たく熱くなる樣な氣がした。女の子は私に寄り添ふて來て、一緒に歩いた。さうして廣い廣い原を何時迄も歩いて行つた。何時の間にか原が盡きて、妙な濱へ出た。黒い砂の磯が見果てもなく續いてゐる。變な、年寄りの髮の毛の樣な草が、所所砂にべつたりと着いてゐた。向ふは大きな池である。私は女の子の手を引いたまま、池の沖の方を見てゐた。私はそこで何を待つてゐるのだかわからない。邊りになんにもなく又誰もゐない。私は一人ゐる樣に淋しくて堪らなくなつた。
3 17/03/25(土)22:58:52 No.416860175
「行かう」と私が云つた。その聲が慄へた。私は又女の子の手を引いて、磯傳ひに歩き出した。そのうち、握つてゐる女の子の手が、段段冷たくなつて來た。私は氣味がわるくなり出した。すると女の子が、かすれた樣な泣き聲で、身はここに心はしなのの善光寺といふ歌を歌ひ出した。かはいい女の子なのに、聲丈はすつかり老人である。それからまだ向ふの方へ歩いて行くと、磯に長い長い柳藻が打ち上げてゐて、根もとの方は水の中にかくれて居る。磯に上がつた所丈が枯れてゐて、足にからみついた。何本も何本も縺れたやうに、磯の砂にうねくつて居る。私はかうして、この女の子を自分の傍に引き寄せたけれど、これが本當の私の女だかどうだか解らないと云ふことをちらりと思つた。すると手を引いてゐる女の子が何だか聲を出した。咳いたんだらうと思つたけれどもわからない。笑つたのかも知れない。私は又ひやりとした。女の子の心の底が、何となく怖ろしくなつて來た。けれども、もう考へまい。さう思つて私は女の子の手を力一ぱいに強く握り締めた。冷たい手がぽきりと折れた。私が吃驚して女の子を見たら、女の子だと思つてゐたのは、さつき原の中で殺した爺だつた。