17/01/21(土)00:53:00 SS エ... のスレッド詳細
削除依頼やバグ報告は メールフォーム にお願いします。個人情報、名誉毀損、侵害等については積極的に削除しますので、 メールフォーム より該当URLをご連絡いただけると助かります。
画像ファイル名:1484927580644.png 17/01/21(土)00:53:00 No.404103521
SS エリみほ 長いです
1 17/01/21(土)00:53:52 No.404103740
逸見エリカというらしい。 白衣を羽織った医師らしき男は、少女に対しその名前、生年月日、家族構成などをつらつらと並び立てたが、ベッドの中の彼女はそれらを聞かされても、さながら読書でもしているかのように少しの実感も湧いてこなかった。 すぐ側で手を握る、彼女の母親だという女でさえもまるで赤の他人にしか思えず、何やら気味が悪かった。 だが医師の口にした様々な事柄の中で、ひとつだけ少女の胸に波紋を生んだ言葉があった。 『戦車道』。 今の少女にとっては知識として知っているだけに過ぎないはずの言葉だが、何故かその言葉は彼女の心中に得体の知れないざわつきを生じさせた。
2 17/01/21(土)00:54:45 No.404103965
そんな様子の少女を見て、医師は呆れとも感心ともつかない溜息を吐いた。 「本当に好きなんですね、戦車道が。あなたはずっと熱心に練習に取り組んでいたと、あなたのチームの隊長さんからも聞いてます」 隊長。そう言われても、少女にはそれが一体誰のことなのかさえ皆目見当もつかなかった。 彼女が病室で目を覚ました時、そこにいた二人の少女。 一人は少女に抱き付いて泣き崩れ、一人は病室の片隅で苦しげに唇を噛み締めていた。あの二人のどちらかなのだろうか。 「……でも、その戦車道が、あなたを……」 医師は一瞬悲しげに目を伏せ、それから慌ててかぶりを振った。 「……いえ、なんでもありません。大丈夫です、記憶ならきっと戻ります。焦らず気長に、これから頑張っていきましょう━━逸見エリカさん」 医師はそう言って去り、母だという女も席を立ち、逸見エリカと呼ばれた少女は独り病室に残された。 逸見エリカ。それが自分の名。 まだ実感はまるで湧かない。自身の置かれた異常な状況にただ戸惑うばかりだ。 しかし少女の胸の中で、先ほど生まれた波紋が━━戦車道という言葉だけが━━いつまでも熱を持って燻っていた。
3 17/01/21(土)00:55:01 No.404104028
◆
4 17/01/21(土)00:56:19 No.404104332
病院の廊下でソファに座り、西住みほは悔恨に苛まれていた。 戦車道全国高校生大会、その決勝。 彼女の所属する黒森峰女学園機甲科、戦車道チームに相対したのは、全国大会常連の強豪校、プラウダ高校。 決して楽な試合では無かったが、それでもなんとか徐々に黒森峰の勝利が見えてきた頃だった。 副隊長にしてフラッグ車を任された彼女のもとに、ある通信が飛び込んできた。 ━━逸見エリカ、赤星小梅らのⅢ号戦車が崖から滑落、増水した川で水没。 自身はフラッグ車の車長であるという迷いもあったが、みほは独断で作戦行動から外れすぐさまその地点に急行し、戦車から降りて救助に向かった。 逸見エリカは、みほにとってほとんど唯一と言える友人だった。 戦車道において最有力といえる流派、西住流。その西住家の次女であり、さらに一年生にして副隊長という任を負った彼女に対し、チームメイトは自然と距離を置き、その陰から羨望と嫉妬の眼差しを浴びせ掛けた。
5 17/01/21(土)00:57:06 No.404104487
そんな彼女に、唯一真正面から接してきたのがエリカだった。 エリカは自身の敬愛する隊長でありみほにとっては姉でもある西住まほに対してのみ至極従順だったが、その他の人間に対しては極めて人当たりの強い少女だった。 それはみほに対しても例外ではなく、気弱で内向的な部分をよく叱咤され、中等部で出会った当初は苦手意識、どころか若干の恐怖すら感じていた。 だがエリカのそういった態度が、単に裏表が無く、自他に嘘をつかないという部分に端を発していることに気付いてから、みほのエリカに対する目は徐々に変わっていった。 エリカはみほの実力と才能から目を背けることなく正面から向かい合い、評価し、そして自らの努力でそれに追い付き、越えようとしていた。それはみほにとって、初めての経験だった。 これまでみほの周囲にいた戦車乗り達は、皆みほの実力を前にして、その足を止める者ばかりだった。 ある者は、生まれつきの天才には敵わないと早々に諦め。 ある者は、家の七光りに過ぎないと目を逸らし。 ある者は、みほの才能に取り入って、甘い汁を啜ろうとした。
6 17/01/21(土)00:57:51 No.404104655
だが逸見エリカは違った。エリカは壁の高さを誰より正しく見据えながらも、自らの力でそれを越えようとしていた。 かつて一度だけ、何故そんな風に迷わずに進めるのかと訊ねたことがあった。エリカの答えは至極明快なものだった。 「決まってるじゃない。好きだからよ。戦車道が大好きだから、誰にも負けたくない。それだけのことよ。あなたは違うの?」 その時のエリカは、みほの目に眩しく、尊いものとして映った。 自ら決めた道を邁進するエリカの姿は、未だ進むべき道を見つけられずにいたみほに、憧れにも似た感情を抱かせた。自分もいつかあんな風に、自らの意思で自らの道を歩くことができるだろうか、と。 みほを越えようとするエリカと、そのエリカに憧れるみほ。そんな奇妙な関係ながら、しかし二人は少しずつ惹かれあっていった。
7 17/01/21(土)00:58:22 No.404104755
エリカは持ち前の面倒見の良さで、戦車道以外はからきしのみほに何かと世話を焼き、みほは何かと軋轢を生みがちなエリカと周囲の緩衝材となった。 やがて二人は友人となり、戦車道のみならず平時からいつも一緒に過ごすようになった。 正反対の二人の組み合わせを、黒森峰の隊員たちは初めは驚きと共に、やがて暖かな目で見守るようになった。 逸見エリカは西住みほにとって、そんな掛け替えのない存在だったのだ。 みほがエリカたちの滑落地点まで辿り着くと、確かにⅢ号戦車が増水した川の中に取り残されていた。遠目からでも、エリカの色素の薄い髪が一目で分かった。 搭乗員たちの困惑の声を背に、みほはフラッグ車を降りて救助に向かった。 だがそんな彼女を押し留めたのは、他でもないエリカだった。救助に現れたみほを見て、エリカは怒声を張り上げた。
8 17/01/21(土)00:58:55 No.404104858
「バカ! なんであなたが来るのよ! あなたフラッグ車の車長でしょう!?」 「だって……エリカさん……!」 「いいから戻りなさい! 私達なら大丈夫! 救助ならもうすぐ来るわ!」 「……でも……!」 「試合を捨てる気なの!? 何のために皆これまで頑張ってきたと思ってるの!? もしこんなことで負けたら、私あなたを許さないから!」 必死の形相で叫ぶエリカに気圧され、みほは後ろ髪引かれながらも踵を返す。そのまま迷いながら走り出そうとした時、エリカが一度だけ彼女を呼び止めた。 「……みほ!」 みほは振り返り、エリカを見つめる。 「何? エリカさん!」 「……一応、お礼は言っておくわ。……ありがとう」 エリカは照れ臭そうに、視線を逸らして呟くように小さく言っただけだったが、豪雨の中でもみほにははっきりと聞き取れた。 「エリカさん……!」 「……ほら、もう行きなさい! 勝ちなさいよ、必ず!」 「うん!」 先程とは違い、確かな足取りで走り出す。エリカのこういった他人には伝わりにくい不器用な優しさが、みほは何より好きだった。
9 17/01/21(土)00:59:24 No.404104948
その後フラッグ車に戻ったみほは駆け付けた味方と連携し、すぐ側まで迫っていたプラウダ側を逆に包囲、相手フラッグ車の撃破に成功する。 その勝利は、同時に黒森峰女学園の、前人未到の全国大会十連覇達成の瞬間でもあった。 全隊が歓喜に湧き立ち、地鳴りのような歓声が轟いた。隊長であるまほは胸を撫で下ろした様子で、勝敗に然程拘りのないみほでさえ、その場に立ち会えたことに震えるような感動を覚えた。 だがひとつの報せが、そんな一同の欣快を切り裂いた。 “他の搭乗員の避難を優先させた逸見エリカが、鉄砲水により増水した川に転落。未だ救助は難航し、当人の安否は不明” 通信手からその報を聞かされたみほは、自身の視界が急速に歪み、暗転していくのを感じた。
10 17/01/21(土)00:59:43 No.404105021
◆
11 17/01/21(土)01:00:42 No.404105207
鼻につく消毒液の香り、真っ白な壁と床、どこかから聞こえるぼそぼそとした話し声。 みほは幼い頃から病院という場所が嫌いだった。それは特に明確な理由がある訳でもない、言語化し難い感情だったが、あえて言うならば、みほはその空間に染み付いた死の匂いを感じ取り、忌避していたのだろう。 みほはもう数時間の間、廊下に備え付けられたソファに座り、膝に手を置いた姿勢でほとんど微動だにしなかった。 みほの心中では様々な混沌とした感情が入り混じり、絶えず渦巻き続けていたが、それらは畢竟、ただ一言に集約する。それは、あまりに大きな後悔だった。 何故あの時、無理にでもエリカを助けなかったのか。 自分があの場で戦車に戻らなければ、こんな事にはならなかったはずだ。 こんな風にして手に入れた勝利など、何の意味も価値も無い。 みほは奥歯を噛み締め、血が滲むほどに拳を固く握った。
12 17/01/21(土)01:01:17 No.404105330
病室で目を覚ましたエリカは、まるで別人のような有様だった。記憶喪失。一言で言えば、今のエリカはまさにその状態にあった。 医者が言うには、その原因が外傷によるものか酸素欠乏によるものかは判別が付け難く、またエリカの記憶がすぐに回復するものなのか、二度と戻らないものなのかはまだ何とも言えない状態らしい。 もしこのまま、エリカの記憶が戻らなかったら━━。 自身と友人だったことも忘れ、逸見エリカという元の人格を取り戻すこともなかったら、自分は一体どうすればいいのだろう。 悪い考えばかりが浮かび、みほは今すぐ逃げ出したい衝動を必死に抑え込む。 このままではまずいと立ち上がり、すぐ近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、一気に流し込む。元々コーヒーは苦手であり、吐きそうになったが、頭は多少すっきりしたし、自罰的な気分には丁度よかった。
13 17/01/21(土)01:01:50 No.404105433
そんなみほに声をかける者があった。姉である西住まほだ。 「みほ、大丈夫か」 辛うじてパンツァージャケットから着替えただけのラフな格好で、シャワーも浴びていないため髪や顔にはうっすらと乾いた泥の汚れが残り、深い隈の刻まれた疲れきった顔をしている。ひどい状態だが、みほも殆ど同じようなものだった。 「お姉ちゃんこそ」 「私は大丈夫だ。少しは寝ないと、お前まで倒れてしまうぞ」 「……眠れるわけ、ないよ」 「……そうだな」 少し前まではエリカと同車両の搭乗員たちや他の隊員たちも病院にいたのだが、試合後だというのに休息すら取っていない彼女らの体調を考慮し、また大所帯で病院側への迷惑にもなるため、まほが強引に帰宅させていた。 その時にみほも帰らせようとしたのだが、彼女だけはどうしても動こうとはしなかった。ほとんど幼少期以来といえる実の妹のそこまで頑なな態度を、まほは驚きと共に受け止めた。 「……エリカの面会許可が下りた」 「本当!?」 みほがパッと顔を上げ、まほは頷く。
14 17/01/21(土)01:02:48 No.404105650
「ああ。だから呼びに来たんだ」 「それなら……それなら早く行こうよ! お姉ちゃん!」 まほの手を引きすぐにでも走り出そうとするみほだったが、まほはゆっくりと歩き出す。 「こら、一応病院だぞ。走っちゃダメだ」 「あ……。う、うん。そうだよね、ごめんなさい」 みほは言われた通りに歩みを緩めるが、やはりそわそわして落ち着きが無い。 「先生の話によると、何が記憶を取り戻す切っ掛けになるか分からないから、とにかく色んなことを話して刺激を与えるのがいいらしい。出来るか?」 「うん、分かった。やってみる」 「私もなるべくフォローするが、お前が一番いいだろう」 「……私が?」 みほは首を傾げる。それとほとんど同時に、二人はエリカの病室の前に辿り着く。 「そうだ。……お前はエリカの、友達だろう?」 「……うん。そう、そうだね」 決意の滲む表情と共に、みほは病室の扉を開く。
15 17/01/21(土)01:03:48 No.404105837
広々とした個室、窓から吹き込む風がカーテンをゆったりと揺らしている。ベッドの上の少女は、入室した二人を見て身を起こした。 少女は病衣に身を包み、頭には包帯を巻いていた。かつての逸見エリカの勝気な態度とは程遠い、驚きと困惑、僅かな怯えの入り混じった表情を浮かべている。 「エリカさん!」 みほが駆け寄ると、少女はびくりと身を震わせた。 「え……あ、ああ、私、ですよね」 少女は戸惑いつつ、ふにゃりとした愛想笑いを浮かべる。 「そうだよ、エリカさん! 私……みほ、西住みほだよ、覚えてない?」 「西住……みほ、さん……。……あの、貴女は、私の……?」 みほは一瞬、痛みに耐えるように顔を歪めたが、それを呑み込んで笑顔を作る。 「……友達……。友達だよ、エリカさん!」 「友、達……」 少女はしばし黙り込み、頭を抱えるようにして俯いたが、やがて申し訳なさそうに顔を上げた。 「あ、あの……。すいません、私、まだ何も……。……ごめんなさい……」
16 17/01/21(土)01:04:48 No.404106022
消え入るような声だった。分かっていたはずのことだが、その言葉を聞いた瞬間、みほは自身のどこか奥底で、何かがひび割れるような感覚を覚えた。思考が停止し、その場で人形のように凍り付いた。 「みほ……みほ! 大丈夫か?」 まほの声でようやく我に返り、慌てて取り繕う。 「あっ……、う……うん、平気、大丈夫。ごめんね、エリカさん」 まほはそんな妹の痛ましい様子に顔を顰め、己の無力さに歯噛みみした。 「……エリカ、私はみほの姉で、西住まほだ。君の所属している戦車道のチームで、隊長をしている」 「隊長……あなたが……」 まほの言葉に、少女はハッとした顔を見せる。
17 17/01/21(土)01:05:09 No.404106093
「あの、私、戦車道をしていたんですよね……?」 「ああ。君は……エリカは優秀な選手だったよ」 「その……何だか、その戦車道っていうのが気になって……。よろしければ、戦車道のことと、私のこと……。詳しく教えていただけませんか?」 まほとみほは互いに顔を見合わせ、明るい表情を見せた。少女の言動に、今後の展望への希望が見えたからだ。 「勿論! エリカさんと私は、黒森峰で初めて知り合ったの。本当言うと、最初はエリカさんのこと、何だか怖そうな人だなあって思ってたんだけど……」 努めて明るく振る舞い、身振り手振りを交えて話すみほと、それに熱心に聴き入る少女を見て、まほは全てが丸く収まるのも案外遠くないことかもしれないと思い、うっすらと穏やかな笑みを浮かべた。
18 17/01/21(土)01:05:47 No.404106241
◆
19 17/01/21(土)01:06:16 No.404106336
面会時間一杯まで付き添ってくれた西住姉妹が病院を後にし、少女の病室にはまた静けさが戻ってきた。既に消灯時間は過ぎており、暗闇の中で自分の手元さえ覚束ない。 結局、学校生活や戦車道、プライベートの事まで様々な話を聞かせて貰ったが、記憶が刺激されるようなことは無かった。どの話もまるで他人の事のようにしか感じられず、無駄骨を折らせてしまったと顔を伏せて謝る少女を、姉妹は優しく慰めた。 ごろりと寝返りを打ち、ぼんやりと天井を見上げる。 ━━副隊長……みほさんはすごく優しかったし、まほさんも静かでちょっと怖いけど、いい人だったな……。 縋るべきものが何もない中、少女は彼女自身の主観では今日出会ったばかりの姉妹を、しかし信頼できる相手だと感じていた。
20 17/01/21(土)01:06:48 No.404106438
あんな素敵な人たちに世話を焼いて貰える自分は、一体どんな人間だったのだろう。今の自分とは、どう違うのだろうか。 何もかも分からないことだらけの状況。心細くないと言えば嘘になったが、彼女たち姉妹が側にいてくれれば、何とかやっていけるような気がした。 ━━退院したら、戦車道をさせてもらおう。上手く出来るかは分からないけれど、きっと私にとって、大切なものだったのだろうから。 そう密かに心に決めて、少女はひとり眠りに就いた。
21 17/01/21(土)01:07:05 No.404106531
◆
22 17/01/21(土)01:07:53 No.404106714
「いい天気ですね、エリカさん。でもちょっと眩しいかな? 大丈夫ですか?」 「あっ、だ、大丈夫です! ありがとうございます……」 みほに付き添われ、少女は覚束ない足取りで石畳を歩く。顔を上げるとみほの微笑が間近にあって、どぎまぎして思わず顔を逸らしてしまった。 目覚めてから半月近くが経ったその日、少女はみほの勧めで病院の中庭を訪れていた。まだ頭の包帯は取れないものの、身体の不調は殆ど無い。残暑の残る季節だが、この日は折良く陽射しも柔らかく、涼やかな風も吹く過ごしやすい天候だった。 「たまには外に出ないと、身体が鈍っちゃうから。私ならいつでも付き添うから、出来るだけ身体を動かすようにしましょうね」 「は……はい、ありがとうございます……」 「もう、さっきからエリカさんそればっかり。お礼なんていいって、いつも言ってるじゃないですか」 「あ、はい、そうでした、すいません……ありがとうございます……」 「ほらまた。エリカさんったら」 そうして木漏れ日を受けながら穏やかに笑うみほの姿は、さながら水彩画のような侵し難い美しさを帯びており、少女はしばし我を忘れて見惚れてしまった。
23 17/01/21(土)01:08:54 No.404106916
「エリカさん?」 「……あっ!」 不意にみほに顔を寄せられ、少女はようやく我に返る。 「どうかしましたか? やっぱりまだ気分が悪いですか? ごめんなさい、無理に連れ出したりしなければ……」 「いえ! いえ! 違います! 本当に大丈夫です! お気になさらず! ちょっとボーッとしてただけなので!」 慌てて取り繕ったが、みほの表情は晴れなかった。 「……本当ですか? ……お願いだから、無理はしないでくださいね……?」 不安げなみほの顔を見て、少女は大きな後悔に苛まれた。自分の不注意でこの人に余計な心配をさせてしまった。そう思うと心がずしりと重くなるようだった。
24 17/01/21(土)01:10:02 No.404107165
目覚めてからほとんど毎日、面会時間一杯まで少女の世話をし、話し相手になり、あらゆることを気遣ってくれるみほの存在は、一寸先も見えぬ暗闇の如き不安心に支配された少女の日々、少女の世界の中で、たった一つの光に他ならなかった。もしもみほがいなければ、少女にとって世界とは道標のない暗夜行路そのものであり、いつしかその精神は恐怖と憂心に呑まれていたであろう。 故に少女にとってみほは恩人という言葉では言い表せないほどの不可侵の存在であり、人格を持った救いそのものであったのだ。 この人の為ならば自分は何をしても構わない。そして自分がこの人を傷付けることは決してあってはならない。そんな崇拝に近い感情を、少女はみほに抱いていた。 「あ、エリカさん。そこ段差になってますから気を付けて」 「あっ、はい。ありがとうございます」 何の気なしに差し伸べられたみほの手を掴む。するとみほは何かに驚いたようにその場で硬直した。 怪訝に思い、少女は首を傾げる。「……みほさん?」 みほはハッとしたようにかぶりを振った。 「あ……ごめんなさい。何でもないんです」
25 17/01/21(土)01:10:34 No.404107283
「本当ですか? みほさん、毎日ここに来てくれるし……疲れてるんじゃないですか? 私のために、無理をなさらなくても……」 「違うんです! そうじゃなくて……」 みほは少し逡巡する様子を見せた後、ぽつぽつと話し出す。 「少し……驚いたんです。私の知っているエリカさんは、絶対に差し出された手を素直に取ったりしない人だったので……。分かってるつもりだったけど、ああ、本当に違うんだなあ、って……」 「私が……ですか?」 俄かには受け入れ難い言葉だった。かつての自分はそんなに性根の捻じ曲がった人間だったのだろうか。 「ひどい人ですね、私は。みほさんをそんな風に困らせるなんて」 少女が口を尖らせると、みほはくすくすと笑った。 「そうなんです。エリカさんは困った人なんですよ」 しかし言葉とは裏腹に、みほの表情はまるで愛しい想い人を回顧し、慈しむかのようだった。
26 17/01/21(土)01:11:02 No.404107387
◆
27 17/01/21(土)01:11:40 No.404107535
少女のもとに、みほはほとんど毎日、まほも多忙の合間を縫って面会に訪れ、黒森峰の他の隊員たちも頻繁に見舞いにやって来た。 その甲斐もあってか少女は順調に快方に向かい、事故からおよそ一ヶ月ほどで退院の運びとなった。だが外傷は癒えても、記憶は一向に戻らなかった。 西住姉妹は気を使っていたが、隊員たちは〝あの〟逸見エリカの変わりように驚きを隠せない様子だった。 果たして自身が元々どんな人間だったのか。どうしても気になった少女は、西住姉妹が居ない場面で隊員たちに思い切って尋ねてみたことがあった。 「あの……私、こうなる前はどんな人間だったんでしょうか? 皆さんの反応を見ていると気になって……。よろしければ、どうか聞かせてください」 すると隊員たちは一様に顔を見合わせ、何とも言えない笑みを浮かべた。 「どんなって……ねえ……?」 「今のあなたとは正反対、というか……」 「……プライドが高くて、皮肉屋で、短気で……」 「いや、言い過ぎでしょ!?」 「だって本当のことじゃないですか」 「うーん、まあ、確かに……」 少女は驚きに身を乗り出す。
28 17/01/21(土)01:12:27 No.404107714
「ちょ、ちょっと待ってください……! そ……そんなにひどい人だったんですか、……私は……!?」 しかし隊員たちはかぶりを振った。 「あー、違うの。悪い人じゃないんだよ?」 「そうそう、うちの誰より練習熱心でしたし……」 「口ではああだこうだ言っても、面倒見が良いって言うか……」 「分かる分かる、素直じゃないんだよねえ」 「そういえば、私が練習試合でいきなり車長やることになった時にさあ……」 戸惑う少女をそっちのけで盛り上がる隊員たち。その会話の内容からはまるで人物像が掴めず、少女の混乱はますます深まるばかりだった。 どうも記憶を失う前の自分は、一筋縄ではいかない人物だったらしい。 辛うじてそれだけ読み取って、少女は尚も逸見談義で盛り上がる隊員たちに、さらに質問をぶつけてみることにした。 「あの、もう一つ質問いいですか? 私と西住みほさんは、その……どんな関係だったんでしょうか?」 すると隊員たちは、今度は一転して驚きと共に、悲しげな表情を見せた。
29 17/01/21(土)01:12:55 No.404107828
「……どうして……気になるんですか?」 「……みほさん、私にすごく優しく、親切にしてくれるんです。それに、私のことを友達だって言ってくださって……」 隊員たちはどんな言葉をかけるべきか慎重に選んでいるようだった。やがてその内の一人が口を開く。 「……そう。友達。逸見さんと副隊長は、親友だったよ」 「……うん。水と油みたいに見えるのに、すごく仲が良くて……いつも一緒だったよね」 「それを逸見さんに言うと、怒られましたけどね」 隊員たちはその情景を思い浮かべたのか楽しそうに、同時に少し寂しげに笑った。 隊員たちの口ぶりからしても、西住みほと逸見エリカは本当に良い友人だったのだろう。 だとしたら━━。 少女はみほの顔を思い浮かべ、胸を痛めた。 だとしたら、その親友が記憶を失った悲しみとは、一体如何ばかりのものなのだろうか。
30 17/01/21(土)01:13:31 No.404107947
◆
31 17/01/21(土)01:14:22 No.404108147
深夜。寮の自室で一人、西住まほは作業に追われていた。 個室は機甲科高等部、隊長と副隊長の特権であり、その他の機甲科生徒には相部屋が宛てがわれる。しかし中等部ではそうもいかず、かつてはまほとみほもそれぞれ通常の相部屋で生活していた。みほは中等部ではずっとエリカと同室だった。 明日はそのエリカが退院後初めて練習に参加することになっており、まほは今まさにその為のプランを練っていた。あまり負担が大きいものは避けたほうが無難だが、かと言って刺激が小さすぎても意味が無い。調整は中々に難しいところだった。 もう時刻も遅く、急いで片付けねばならない案件だったが、この日のまほは今ひとつ集中を欠いていた。机に向かっていても、すぐに別のことに意識が行ってしまう。 これではいけないとまほは立ち上がり、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出す。砂糖とミルクが大量に入っており、みほに見つかると体に悪いといつも叱られるものだ。 近頃妹の様子がおかしいことに、まほは目敏く気付いていた。 顔はやつれ、目には精気が無い。常に疲れきっている様子で、練習の際もどこか上の空だ。
32 17/01/21(土)01:15:16 No.404108340
本人は平常を装っているが、空元気が見え見えだ。みほには以前からそういうところがあった。どれだけ負担を背負い込んでいても、人にはそれを隠そうとする。芯の強さとでも言うべきものだろうが、きっと本人はとても辛いことだろう。 幼い頃は、そんなことは無かった。幼いみほはいつも元気で、やんちゃで、いつも手を焼かされたものだ。何か嫌なことがあれば、すぐに姉であるまほに泣きついてきた。 みほが変わったのは一体いつからだろうかと考えて、思い当たった答えは目を背けたくなるものだった。 それは中等部で、自分がみほを副隊長に任命してからではなかったか。 だとすれば、妹を苦しめ、変えてしまった張本人は━━。 嫌な想像を押し留めるように、コーヒーを流し込む。 まほは深い息を吐いて、卓上のノートを見つめた。
33 17/01/21(土)01:16:10 No.404108519
自分がみほを苦しめた仇敵ならば、逸見エリカはそれを助けた恩人ということになる。 まほの目から見ても、みほとエリカは良き友人だった。互いの足りない部分を補い、支え合い、共に歩く関係は、姉として時折少々嫉妬に近い念を覚えるほどだった。 逸見エリカは変わった戦車乗りだった。 エリカはその無遠慮な物言いと人当たりの強さで多くの敵を作り、その根底にある世話焼きで面倒見の良い面で同じだけの味方を作る、そんな人間であった。規律と風紀を重んじる黒森峰だからこそ大きな問題は起きなかったが、そうでなければエリカの周囲には常に諍いが絶えなかったことだろう。 まほ個人としては、そんなエリカのことが嫌いではなかった。 誰より戦車道に熱心なエリカの姿は、まほに忘れかけた初心を何度も思い出させたし、隊長、隊長と仔犬のように慕ってくる後輩を可愛いと思うくらいの人間味は、まほも当然持ち合わせていた。
34 17/01/21(土)01:17:26 No.404108775
隊長という立場上、それを表に出したことはほとんど無かったが、まほはエリカの人格と戦車乗りとしての技量を確かに評価しており、そろそろ分隊の指揮を任せてもいいとさえ考えていたところだった。 自分とみほだけが牽引するのではなく、隊の誰もが自ら考え、臨機応変に行動できるチームになってくれれば。エリカにその為の第一歩を踏み出し、他の隊員を鼓舞してもらえれば。きっと黒森峰は、自分が居なくなっても強くあり続けられるだろう。 思い描いていたそんな理想図は、しかし突然奪い去られた。
35 17/01/21(土)01:18:31 No.404108991
事故当初、まほは自責の念で泣き崩れるみほを懇々と宥めたが、実際のところ、作戦立案・指揮者としてまほも同じく尽きせぬ後悔に苛まれていた。エリカの乗っていたⅢ号戦車に対し、危険な崖際のルートを選択したのは他でもないまほである。 予め予測できた事故ではなかったのか。滑落の報告を受けた時点で試合など放棄して救助に向かうのが人として正しい道ではなかったのか。そんな考えばかりが常に胸裏に渦巻いていた。 前人未到の全国大会十連覇という偉業を成し遂げたというのに、外野からの溢れんばかりの祝福や賞賛とは裏腹に、あの事故以来、隊内には常にどこか寒々とした空気が漂っていた。 犠牲無くして勝利は得られない、と人は言う。 だが、犠牲の上に得た勝利になど、一体どれほどの価値があるというのだろうか。
36 17/01/21(土)01:18:48 No.404109054
◆
37 17/01/21(土)01:19:30 No.404109202
黒と赤を基調としたジャケットに袖を通し、制帽を頭に載せる。少女の主観では初めて身に付けるはずの黒森峰のパンツァージャケットだったが、何故だか妙にしっくりと来る感覚があった。 事故後初の練習を目前に控え、少女は更衣室で精神を整えていた。 もうすぐ戦車に乗れる。そう考えただけで、心奥で燻り続けていた熱が昂ぶって仕方なかった。だがそれと同時に、少女の心中には大きな不安が陰を落としていた。寮から校舎までの道すらも覚えていなかったのに、果たして戦車になどまともに乗れるのだろうか。 「エリカさん、準備できた?」 同じくパンツァージャケットに身を包んだみほが声をかけてくる。少女の姿を見たみほは一瞬目を見開いて、嬉しそうに笑った。 「……似合ってるよ、エリカさん。……って、当たり前かな」 「あ、ありがとうございます……。その、変じゃないですか?」 「もちろん! それじゃあ、行きましょうか。もう皆待ってますよ」 みほの差し出した掌を、少女はおずおずと見つめた。
38 17/01/21(土)01:19:51 No.404109277
「あの、本当にいいんでしょうか……? 皆さんの足を引っ張って、迷惑をかけることになるんじゃないかと……私、どうしても不安で……」 みほは俯く少女の手を握り、笑いかけた。 「大丈夫! 今日はエリカさんに合わせてお姉ちゃんがきちんとメニューを考えてくれてるから。エリカさんは安心して、まずは戦車に乗ってみるところから始めよう?」 「は……はい! ありがとうございます!」 みほの笑顔に、不安がぱっと薄らいだ。思えば目覚めた直後から、みほのこの笑顔に少女は何度も救われてきた。みほの献身的な介抱が無ければ、今頃こうして戦車に乗れることも無かっただろう。 彼女のその優しさに、恩義に報いなければ。 決意を新たにする少女は、みほの笑みに差す陰の色に少しも気付いていなかった。
39 17/01/21(土)01:21:33 No.404109632
その日の練習は車両ごとに各自で訓練場内の走行・停止目標に対しての射撃等を行う基礎訓練だった。 少女は仮の車長として、一先ず戦車に乗ってみることを目的とし、他の乗員も事故から少女の一足先に練習に復帰していた赤星小梅をはじめとして、以前より逸見エリカと馴染みの深かった者が選ばれた。 既に他の車両はそれぞれ練習を始めており、少女は乗員たちと共に車両の到着を待っていた。 「今日はよろしくね、逸見さん」 「もう大丈夫なのか? 無理すんなよ逸見」 「エリカ、今回は乗ってみるだけでいいからね」 親しげに話しかけてくる乗員たちに、少女は思わずたじろいだ。何度か入院中に面会したことのある相手たちだが、少女にとってはほとんど初対面に近い。それに、その時にはいつも隣でみほが間を取り持ってくれていたのだ。
40 17/01/21(土)01:22:07 No.404109742
「あっ、あの、よっ……よろしくお願いします……!」 深々とお辞儀をするとその拍子に制帽がぱさりと落ち、慌てて拾い上げて土を払う。 そんな様子を見て乗員たちは調子が狂うといったように無言で顔を見合わせ曖昧な笑みを浮かべ、少女はかっと赤面した。 と、その時、大きなエンジン音が近付いてくるのを感じ、少女は顔を上げた。見ると格納庫の方向から一台の戦車が近付いてくるところだった。 下腹部に響くような重いエンジン音と履帯の金属音と共に、巨大な鋼鉄の塊が目の前で停車する。他の乗員は慣れた様子だったが、少女はその威容に圧倒され、息を呑んだ。 「おまたせー」 ハッチを開け、運転手が顔を覗かせる。 「遅い! 何やってたんだ!」 「いやー車両チェックに手間取っちゃって……」 「もう他は練習始めてるよー」 「だからごめんって! さあ乗って乗って!」
41 17/01/21(土)01:22:38 No.404109836
「…………」 乗員たちの会話も耳に入らない様子で戦車を見つめる少女に、赤星が声をかける。 「逸見さん、これが今回私たちが乗る戦車です。ドイツの中戦車で、名前は……」 「Ⅲ号戦車……」 「……え?」 ぽつりと呟いた少女に、赤星は驚いて目を見張った。少女は躊躇うことなく車体に足を掛け、自然に、まるで手慣れた様子でハッチを開き、Ⅲ号戦車に乗り込んだ。他の乗員たちも呆気にとられてそれに見入っていた。記憶の無い者の動きとは、とても思えなかった。 「皆さん、どうかしましたか?」 顔を出した少女の呼び掛けで乗員たちは我に返り、続いて戦車に乗り込んだ。だがその間も、皆一様に狐につままれたような怪訝な顔を浮かべるばかりだった。 これが記憶を失った、戦車を何も知らないはずの人間の動きだろうか? その疑問は、すぐに驚愕へと変わることになる。
42 17/01/21(土)01:22:57 No.404109893
◆
43 17/01/21(土)01:23:44 No.404110035
『あと三十分で終了時刻です。各車両、適当なところで切り上げて撤収準備に入ってください』 全車に対するその通信を受け、各所に散り散りになっていた戦車たちが疎らに車庫に戻っていく。 隊長と副隊長であるまほとみほは、他の隊員より一足先に練習を切り上げ、訓練場をゆっくりと横切っていく戦車の群れを眺めていた。 「……見ていた? みほ」 「……うん……」 二人の視線の先には、砂埃で汚れたⅢ号戦車。あの少女が仮初めの車長を務めるはずだった車両だ。 そう、仮初めであるはずだった。 逸見エリカとしての記憶を失ったはずの少女は、車長として射撃・走行訓練で共に見事な指揮を取り、予想を遥かに上回る高いスコアを叩き出した。 さらには別所で行われていた隊内紅白戦にも飛び入りで参加、模擬戦ながら5両中2両を撃破してみせた。 その様子はまほとみほも目撃していた。どう見ても、記憶の無い、主観では初めて戦車に乗るはずの人間の動きではなかった。 「……どういうことだろう。エリカさん、記憶が無いはずじゃ……?」 まほは顎に手を当ててふむ、と唸る。
44 17/01/21(土)01:24:09 No.404110117
「……そもそも、エリカの記憶は全てが無くなったわけじゃないだろう? 記憶喪失には丸っきり赤ん坊の状態まで知識がリセットされるケースもあるそうだけれど、エリカはそうじゃない。身の回りの一般常識は覚えているわけだから、戦車に関することも覚えていたっておかしくはない……のかな」 「……私のことは忘れてるのに?」 みほが呟き、口を尖らせる。まほは一瞬固まった後、ぷっと吹き出すように笑った。 「なんだみほ、戦車に妬いてるのか?」 「もう! お姉ちゃん! そんなんじゃないよ!」 「はは、どうかな」 尚も笑うまほをみほはぽかぽかと叩いたが、徐々にその手から力が抜けていった。まほは何かを感じ取り、不意に俯いたみほの顔を覗き込んだ。 「みほ……?」 「……そうかも、しれない」 「……なに?」
45 17/01/21(土)01:24:35 No.404110208
「……私、悔しいのかもしれない……。エリカさん、私のことは忘れても、戦車のことは覚えてるんだ……。確かに私たち、戦車道で知り合って、戦車道で仲良くなったけど、でも、私は……」 最後は消え入るような声だった。一月前の事故以来、みほの内側で堪えていた何かが、溢れ出しそうになっていた。 「みほ」 まほは妹の掌を両手で包み込んだ。みほはゆっくりと顔を上げる。 「……大丈夫だよ。ただの偶然だ。みほより戦車のほうが大切なんて、そんなことエリカは思ってないよ。そんな風にどちらかを選べるくらい、エリカは器用じゃなかっただろう?」 「……お姉ちゃん……」 姉の言葉に、みほは微笑を浮かべた。決壊寸前だった心の枷が、ゆっくりと解されていく。 「大丈夫。今だけだよ。きっとすぐ、元に戻るさ」 「……そうだね。……そうだといいね」 二人の眺める視線の先では、丁度夕日に照らされたⅢ号戦車から、銀髪の少女が降りてくるところだった。 みほの表情に苦みが走る。乗員たちに囲まれてはにかむ少女の顔は、みほの知っている逸見エリカとはまるで別人のそれだった。
46 17/01/21(土)01:24:59 No.404110286
◆
47 17/01/21(土)01:25:56 No.404110440
夕暮れ、機甲科の更衣室は静まり返っていた。室内にはみほ一人だけ。今日は車両ごとでの自主練習の為、切り上げる時刻もチームごとにまちまちだった。みほの車両の乗員たちは、既に着替えを終えて引き上げていた。 みほが一人残っているのも、何のことはない。他に色々と予定があったり、一刻も早く自室で休みたい他の乗員たちとは違い、みほは何となく気分が重く、さっさと片付けを済ませて帰ろうとは思えなかったからだ。 みほの憂鬱は何も今日に始まったものでなく、ここのところずっと続いているものだった。それを知っているから、乗員たちも彼女を待たずに帰っていったのだ。 その物思いの原因は無論他でもなく、記憶を失くしたあの少女に端を発するものだ。 少女が戦車道に復帰してから、既に一週間。しかし未だ一向に記憶が戻る兆候は見られなかった。 元の記憶が戻るのがいつになるのかという不安は勿論大きかったが、みほの胸中にはもう一つの懸念があった。 その時、唐突に扉が開かれ、数人の隊員が談笑しながら更衣室に入ってくる。室内の最奥に近い位置で丁度ロッカーの扉の陰にいるみほには、誰も気付いていないようだ。
48 17/01/21(土)01:26:29 No.404110560
何となく気まずい思いでそそくさと出て行こうとしたみほだったが━━。 「そうそう、本当に変わりましたよね、逸見さん」 「ほんとほんと、前とは大違いだよね」 耳に入った隊員たちの会話に、ぴたりと足が止まった。
49 17/01/21(土)01:27:01 No.404110640
「すごく優しいっていうか、親切ですよね」 「だよね、全然怒らなくなったよねー」 「あんた、前はいっつも叱られてたもんね」 「そう! あの人と練習する時は何かヘマしないかビクビクしててさあ。その点今の逸見さんはいいよねー」 隊員の少女たちは単なる冗談交じりの談笑のつもりなのだろう。しかしロッカーの扉を掴むみほの手は、震えていた。 「何なら、前の逸見さんより今の逸見さんのほうがいいかもなんて思っちゃうよね」 「えー、ちょっとそれは酷くない?」 「だって、そうじゃない? すぐに癇癪起こしたり、ちょっと気が緩んだだけで叱られたり……」 「まあ、それは確かに」 「あーあ、このままずっと今の逸見さんのまま、記憶が戻らなければいいのに……」 けたたましい音と共に、ロッカーが閉められた。 一瞬で静まり返った室内に、金属音が僅かに反響する。 隊員たちは皆一様に驚愕の表情を浮かべ、そちらを向いて立ち尽くすみほを見つめた。
50 17/01/21(土)01:27:33 No.404110730
「……どういう、ことですか?」 その呟きは静かで、しかしその場の空気を凍りつかせるような冷たさを帯びていた。 ゆっくりと歩み寄るみほに、隊員たちは気圧されて後ずさる。常に温厚なみほが放つ、それまでに見たことも無い殺気立った空気に彼女らは、ほとんど恐怖と言っていいほどの狼狽に襲われていた。 「副隊長……そんな……あの……ふっ……副隊長がいること……知らなくて……!」 「すいません……! 私達そんなつもりじゃなかったんです……本当です! わざとじゃないんです!」 「ごめんなさい副隊長! あのっ……そ……それじゃ……! ほら、行くよ! 早く!」 更衣室の扉が乱暴に閉められる。隊員たちが逃げるように立ち去ってから、みほはどっと息を吐いて近くの机に手を付いた。呼吸が荒い。心臓も高鳴っている。こうして他人に怒りを露わにするなど、一体いつ振りのことだろうか。 ゆっくりと息を整えながら、みほは拳を握り締めた。
51 17/01/21(土)01:28:09 No.404110840
一部の隊員たちの間に、先程のような声があるのは分かっていた。逸見エリカの人当たりの強さを考えれば、或いは当然のことなのかもしれない。だが、みほには到底認められたことではなかった。 そんなことはない、お前たちは皆、エリカの本質を、根底にある人間性を理解していないのだと叫んでやりたかった。 しかしそれはすなわち、記憶を失ったエリカ━━今の少女を否定することになる。 みほにはそれも躊躇われ、結果彼女はここのところ、その板挟みのジレンマに苛まれていた。 気にしすぎることはない。エリカが記憶を取り戻せば全てそれで済むことだと、みほはに何度も自分に言い聞かせた。 だが、その肝心の記憶が戻るのが一体いつになるのかは、未だ見当もつかなかった。
52 17/01/21(土)01:28:34 No.404110920
◆
53 17/01/21(土)01:29:36 No.404111154
「では、今日の練習はここまでとする。各自よく休むように。解散!」 隊長であるまほの号令の下、隊員たちはきっちり整った一礼の後、打って変わって年相応の賑やかさで各々数人のグループに別れて散らばっていく。 「副隊長……みほさん!」 ひとり立ち去ろうとしたみほに、少女が急いで声をかけた。みほは冷ややかな表情で振り返る。 「……何ですか?」 「あ……その……一緒に帰りませんか!?」 少女は必死な顔でみほの二の腕を掴む。みほは一瞥し、溜息をついた。 「……寮までですか? ほんの少ししかありませんけど……それでいいなら」 「はい……はい! ありがとうございます!」 深々と頭を下げる少女も待たずにみほはさっさと歩き出し、少女は慌てて後を追った。 足早に歩くみほに歩調を合わせ、少女は息を整えながら話しかける。
54 17/01/21(土)01:30:02 No.404111228
「あのっ……きょ……今日の私の動き……どうでしたか……?」 みほは少女に顔も向けずに口を開く。 「……そうですね……」 少女が戦車道に復帰してから、既に一ヶ月が経とうとしていた。 実戦レベルの指揮・運用に関しては記憶を失う以前には及ばないとはいえ問題はほとんど無く、むしろ態度が柔らかくなったためか、乗員や他車両との連携は以前よりスムーズに行えているとすら言える。それはみほも認めるところではあったのだが、みほにはどうしても気にかかる部分があった。 「……今日の模擬戦……丘の上で待ち伏せして、パンターを狙った場面……。二度も撃って、どちらも外しましたね。でもあなたは砲手を叱らなかった。どうしてですか?」 「それは……個人の技能が足りなかったのと、ミスとでは違いますから……」 「……本当にそうですか? 確実に当てられる、と思ったからこそ射撃の指示を出したんでしょう?」 少女は言葉に詰まる。図星だった。
55 17/01/21(土)01:30:56 No.404111444
「もう一つ。追い詰めたⅢ号突撃砲が森に逃げ込んだ場面……。どうしてそのまま追わずに迂回したんですか?」 「……それは……狭隘な森林地帯で走行不良を起こして、反撃される恐れが……」 「エリカさんなら、追ってましたよ」 突き付けるようなみほの言葉。目覚めてからずっと、どこまでも優しかったはずのみほが見せた冷たさに、少女は愕然とした。 「最後にもう一つ」 みほは不意に足を止め、少女に振り向く。 「あなた……戦車道、好きですか?」 言葉を返せないままの少女を残し、みほは再び歩き去っていく。 少女はどうすればいいのか分からず、しばしその場で茫然と立ち尽くしていた。 みほの最後の言葉が何度もリフレインする。
56 17/01/21(土)01:31:20 No.404111532
━━見抜かれていた。 少女は戦車道の魅力を、未だよく理解していなかった。 最初は突き動かされるような衝動のままに、そして今は周囲に褒められるから、役に立てるからという安易な理由で戦車に乗っている。少女にとって戦車道の試合は物騒で恐ろしいものであったし、自分が乗る戦車も鉄臭くて窮屈な厄介な乗り物、単なる道具としか思えなかった。 みほにはそれが分かっていた。かつての逸見エリカとは違うと、見抜かれていたのだ。 みほによくやったと褒めてもらえるものだと、子供のように無邪気に思っていた。 本当は前々から気付いていた。気付かないふりをしていたのだ。 みほが自分を見る時、いつも痛みに耐えるような表情を浮かべることを。 そして逸見エリカのことを話す時は、いつも幸せそうな顔を見せることも。 みほが優しくしてくれるのは、自分が何かをした結果ではない。みほが好きなのは、今の自分ではない。逸見エリカという、自分にとっては最も近く、最も遠い存在なのだ。 少女は自覚していなかった己の心境にようやく気付き、息を呑む。 少女は、自分の知らない自分自身に嫉妬していた。
57 17/01/21(土)01:33:03 No.404111905
今日はここまで 少し長くなってしまったので続きます こじれにこじれたエリみほいいよね私はいいと思うというお話です ありがとうございました
58 17/01/21(土)01:34:33 No.404112199
いい…
59 17/01/21(土)01:34:38 No.404112215
長くてびっくりした…
60 17/01/21(土)01:35:59 No.404112484
いい... どうして拗れれば拗れる程に魅力的な光を放つんだろう
61 17/01/21(土)01:36:11 No.404112520
ダークサイド気味エリみほいい…… かつての自分を妬む記憶喪失エリカのいびつさよ……
62 17/01/21(土)01:37:32 No.404112820
このまま拗れきって美しく破綻して欲しい(
63 17/01/21(土)01:38:26 No.404112998
続きが待ち遠しい...
64 17/01/21(土)01:40:20 No.404113341
これエリカの記憶が戻ったらみぽりんが記憶なくしてたみたいな
65 17/01/21(土)01:40:43 No.404113415
いいよね想い人が追い求めてるのは自分じゃない自分なの…是非このまま拗れて行ってほしい
66 17/01/21(土)01:44:52 No.404114309
本当に長え! ゆっくり読むね…