虹裏img歴史資料館

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23/10/01(日)00:54:37 「いい... のスレッド詳細

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画像ファイル名:1696089277822.png 23/10/01(日)00:54:37 No.1107647445

「いい月だね。半月」 「満月じゃなくて?」 「うん。満月はちょっと明るすぎるから。ほどよく欠けてて、ほどよく明るいのが好きなんだ」 外はもうすっかり暗くなっていて、左側だけが欠けた月が、西の空に傾いていた。 彼女の「散歩」に付き合うようになってから少し経ったころのことだった。その日は山に行きたいと言う彼女に連れ添って、朝からずっと森の中を歩き続けた。 山頂の景色は格別だった。そこから麓を見渡して川を見つけた彼女が、次はこの川を辿って海に行こうと言い出したときには、流石に面食らってしまったが。 無理しなくていいよと彼女は言ってくれたけれど、先に帰ってぼんやりとしながら彼女を待つ自分の姿を想像すると、なんだかそれがひどく寂しく思えた。結局は彼女に従いていって、川を下って海まで歩き切ったのだった。 もちろん彼女と同じ速さで歩き続けることはできなくて、川沿いに建っていた風情のある建物を眺めるために足を止めた彼女にようやく追いついたり、あるいは彼女に誘われて、河原の草原に一緒に寝転んで疲れを癒すことで、どうにか目的地まで歩き切ることができた。

1 23/10/01(日)00:54:55 No.1107647530

「ごめんな。俺が遅いせいですっかり夜だ」 「気にしなくていいよ。アタシひとりだったら、夜になる前に帰っちゃってたかも。 …いい月だね、ほんとに」 自分には合わせないとはっきり断っていた彼女に結局気を遣わせてしまったような気がしたけれど、どうやら彼女はそういう寄り道をも楽しんでくれたらしく、こちらの脚の遅さに機嫌を損ねるよりも偶然に見つけた景色を愛でることに夢中になってくれたのは幸いだった。 何より、彼女が立ち止まって見惚れる景色は、掛け値なしに美しかった。 川と見つめ合うように建っていた古い瓦屋根の家も、陽の光をいっぱいに吸ってのびのびと育った草原も、全てが忙しない日常の中にはなくて、足を止める価値のあるものだった。 「ゆっくり歩くとさ、普段は見てなかったものが目に入ってくるんだよね。 レースの速さはわくわくするけど、こんなふうにのんびり歩くと心が穏やかになるんだ。 アタシはどっちも好き」 茜色に染まった空と海が、頬杖をついてそれを見つめる彼女がただ美しくて、疲れた足を波に濡らしながら、陽が沈むまでずっと、ただ海を見ていた。

2 23/10/01(日)00:55:22 No.1107647666

気がつけば辺りは薄暗くなって、夕日の代わりに月と星が見え始めていた。本来の帰る時間はとっくに過ぎているのはわかっていたけれど、山上りと川下りでふたりとも散々汗をかいて身体も服もびっしょりと濡らしてしまっていた。誂えたように服屋と銭湯が近くにあると分かったときに、示し合わせたように目が合って、同じことを考えているんだろうなというのがわかったときには、可笑しくてふたりとも笑い出してしまったのだけれど。 着替えを買って熱くて心地いい湯で汗を流して、一緒に滲み出してきた心地いい疲れに身を委ねて一時間ほど眠りにつけば、空は茜色から小さな光を散りばめた黒に変わっていた。 人家も疎らな浜辺には虫も来なくて、いつまでも波の音と星空に浸っていられるような気がした。水平線に差し掛かった月は、優しい光を波間に揺蕩わせて、群青色の水面に真っ白な橋をかけた。 空も海も、何もかもが彼女の想い出に残りたくて、精一杯に晴れの姿を見せているようで何だか可笑しくなってしまったけれど、きっと自分も同じことをしていたろう。 綺麗だね、と囁きながら眼の前の景色に見惚れる彼女は、その景色に何ひとつ劣らないほどに、美しかったから。

3 23/10/01(日)00:55:32 No.1107647718

彼女と歩む、何もかもが退屈とは程遠い道程にすっかり満足して、いい旅だったと口にしそうになるけれど、実に楽しそうにスキップしながら前を歩く彼女を見ていると、そんな言葉は喉の奥に消える。彼女にとっては今歩いている道も、きっとただの帰り道ではないのだろう。何か楽しそうなものを見つけたら、またそこで足を止めて心ゆくまで満喫する。 帰りが朝になったとしても不思議はないだろう。次の日が休みなのは幸いだった。ここで彼女を置いて帰ったら、きっと次の日もそのことばかり考えてしまうだろうから。 幼い子供のように無邪気に小躍りする彼女は、やはりこちらの予想通りに、にこりと微笑みながらこちらに振り向いた。 「喉乾いちゃった」 「そうだな。喫茶店か何か入るか」 また楽しい時間が始まる予感がして、疲れていたはずの足取りが少し弾んだ。

4 23/10/01(日)00:55:50 No.1107647797

店のドアをくぐってからもう一度そこから出るまでに、またしても一時間が過ぎていた。彼女と共に過ごすと何もかもに退屈しなくて、一時間が五分くらいに思えてしまう。 普通の喫茶店がこんな時間に開いているはずもなくて、結局自分たちが選んだのは、ガラスのランプシェードが木彫の建具の陰影を際立たせる、古色蒼然とした小料理屋だった。 「店の名前、覚えてる?」 「うん。どうして?」 普段なら絶対に入らないような店構えだったけれど、すっかりその雰囲気に夢中になってしまった彼女に引っ張られて、結局ふたりで入口を潜った。身構えていたのが嘘のように店の中は静かで心地よくて、何だかんだと夜食まで済ませてたっぷりと寛いでしまったのだけれど。 「よかった。また行きたくなったら、きみに訊けばいいよね」 浮かれている、としか言えない。けれどそれが恥ずかしいとは思わない。それはきっと、彼女も同じだから。

5 23/10/01(日)00:56:01 No.1107647849

財布の中の領収証の名前と、自分の記憶が一致することを確認する。少し安心した自分の手に握られている財布を見つめる彼女は、さっきとは違って少し不服そうだった。 「後で返すから」 店を出るときに支払いをこちらで済ませてしまったことだけは、彼女のお気に召さなかったらしい。借りを作りたくないと彼女は言うけれど、彼女の時間に今の今までくっついておいて、こちらからは何もしないという方が居心地が悪く感じた。 「いいって。今日は奢りで。 いいものいっぱい見せてもらったし、俺がそうしたかったんだ」 だから、借りを作ったとは思っていない。彼女に何かしてあげたかったから、勝手にそうしたのだ。 そんなささやかな意地を張る自分の姿の方が、借りを返すより面白いと思ってくれたらしい。彼女はむすりと膨らませていた頬を緩めて、剥き出しの一万円札をそのままポケットにしまった。 「…ふふっ。随分頑固になったね。 誰かに似たのかな?」

6 23/10/01(日)00:56:29 No.1107647966

つまらない疑問が頭に残った。先程の服屋や銭湯でも思ったことだったが、彼女は現金をそのまま持ち歩く癖があるらしい。 「財布持ってないのか?」 「うん」 事も無げにそう答えた彼女は、微笑んだまま何も握っていない両手をぷらぷらと揺らした。 「今日みたいな日に落としたら大変でしょう?」 思えば彼女は街に出るような恰好のまま、思いついたら野山を駆け回るような暮らしをずっとしているのだった。何かを携帯するということ自体が煩わしいと手ぶらで出掛けていく姿は、言われてみれば簡単に想像できた。 「ずっとそうなのか?」 「ううん、最近。 前はちゃんと持ってたよ。いい財布でさ。学園に入る前から使ってたんだ」 今まさにそれを持っているかのように指を折る彼女の表情は実に懐かしげで、それがどれだけ気に入られていたかがよく分かる。

7 23/10/01(日)00:56:49 No.1107648074

「物持ちいいんだな」 「気に入ってたから。手触りがすごくいいんだ。お父さんに買ってもらったんだけど、それだけで嬉しくてさ」 目を閉じて、彼女は思い出に浸っていた。財布はなくなっても、それは鮮烈に彼女の中に残っているのだろう。 「お金だけじゃなくて、アタシの好きなものをいっぱい入れてた。浜辺で拾った綺麗な貝殻とか、夕焼け空と雲の写真とか。 でも、壊れちゃって。それからもう財布は持ってない」

8 23/10/01(日)00:57:02 No.1107648124

彼女にそういうひとがいたのかは知らないけれど、子供の頃の初恋の相手を思い出すようなその表情は、いつも爽やかな笑顔を崩さない分だけ、余計に新鮮に思えた。 「新しいのは買わないのか?」 とはいえ、財布がないのは不便だろうと、自分のような人間は思ってしまう。それを聞いた彼女はまたいつものように微笑みを浮かべて、そのささやかな哲学を話してくれた。 「入れ物のために中身を使うって、なんかナンセンスじゃない?」 彼女の話し方があまりにも爽やかだったから一瞬だけ納得しそうになった。けれどやはり、お金を剥き出しのまま携帯するのはいかがなものかと、自分の中の常識が寸前でストップをかけた。

9 23/10/01(日)00:57:14 No.1107648187

「…そうかな…そうかも…」 彼女に説教をするつもりは毛頭ないけれど、やはり彼女と自分の感覚は違うのだ。だからといって彼女のように気の利いた言い方ができるわけではないから、結局口から出てきたのはなんとも歯切れの悪い台詞であった。 「あはは!わかんなくてもいいよ、全然」 彼女はそれを咎めることもなく、その割り切れなさすら面白いと言うように、もう一度楽しそうに笑った。 「そう。 ただの入れ物には興味ないんだ。使ってて楽しいと思えるものじゃないと。 …あの財布にはそれがあって、そういうものにはなかなか出会えないから。 だから、今はこのままでいいよ」

10 23/10/01(日)00:57:28 No.1107648247

何かに囚われることを嫌う彼女の中に、壊れたあとも残り続ける。 きっとその財布は幸せだったろうと、確かめようもない妄想をしてしまうくらい、彼女の思い出は色鮮やかに見えた。 「一途なんだな」 「意外だった?」 からかうような口振りに気を悪くした様子もなく、彼女は問を返した。 「いや。 飽きっぽいのも一途なのも、なんかシービーらしいなって」 何にも縛られたくないのも、何かをひたすらに愛するのも、彼女のありのままの姿だ。 大人になるにつれて誰もがやめてしまった純粋な生き方を貫き通すからこそ、彼女は輝いて見えるのだから。 「そうだね。 あの財布に恋をしてたのかも」 もうそこにはない財布が、そんな彼女の愛をひとかけらでも受け止めたことを思うと、少しだけ羨ましくなってしまった。

11 23/10/01(日)00:57:59 No.1107648387

夢は記憶の整理のために見るものだと、どこかで聞いたことがある。ならばきっと彼女との思い出は脳の中に仕舞い切れないほど溢れ返っていて、自分の頭の中の小人たちは、眠る度にその片付けに追われていることだろう。 掃除の最中に床に落ちたアルバムが偶然開いて、ついつい見入ってしまったようなものだった。褒められた行いではないけれど、せめて窓の外から流れ込む湿気で現実に立ち戻らされるのは勘弁してほしかった。 台風が押し出した雨雲が掃き集められた今年の秋雨は、強い者に追われた後ろめたさを体現するようにしつこかった。一部の地域では警報も出ているというからこの程度で済んでいることに感謝すべきなのだろうが、眼の前にない不幸を思っても今の憂鬱が晴れることはない。

12 23/10/01(日)00:58:12 No.1107648461

目を閉じると何も見えない。だから何だって見える。 閉じた瞼の裏側に、何を思い浮かべても構わない。しのつく雨が気に入らなくても、抜けるような青空を描けば、人は簡単に自由になれる。 けれどひとたび目を開けば、そこには灰色の雲が広がっている。永遠に空想の世界を揺蕩っていられればいいのかもしれないけれど、さっきまで散々惰眠を貪っていた脳は、横になってももう眠りは十分だと遠慮を返してくる。 「…はぁ」 彼女と違って雨を愛せない自分には、ただただ憂鬱な空模様だった。

13 23/10/01(日)00:58:25 No.1107648524

四角い窓枠に囲まれた灰色の雲に、柔らかくてしなやかなシャッターが降りた。閉じた瞼の形をなぞる指を暫くの間好きにさせてやると、背中からしなやかな彼女の身体の温もりと、楽しそうにくすくすと笑う声が流れ込んでくる。 「雨の日は嫌い?」 「…昔、友達と遊びに行こうって言ってた日に雨が降っちゃって。悔しくてずっと窓に張り付いてたら、外出れないんだから先に宿題片付けちゃいなさいって怒られた。 その時からちょっと苦手かな」 目隠しをされているのに、彼女がにこりと微笑む顔がはっきりと見えた気がした。 「そっか。 じゃあ、好きになれるようにしてあげよっか」 そう言って懐からするりと膝の上へと潜り込んできた彼女の顔は、瞼の裏で思い浮かべたのと全く同じ、悪戯っぽい笑顔で彩られていた。

14 23/10/01(日)00:58:38 No.1107648603

四つん這いのまま脇を通って、そのまま膝に頭を乗せてくる仕草はまるで人懐こい猫のようで、余計に愛おしくなってその頭を撫でる。擽ったそうに身体を揺らして笑う彼女を見ていると、さっきまでの憂鬱が一気に吹き飛んでゆく気がした。 「今日さ、片付けしてたらいいもの見つけたんだ」 そう微笑む彼女からは温かくていい匂いがして、片付けの後にはきっと雨の中でも散歩に行って、冷えた身体をシャワーで温めてきたのだろうとわかった。ただ眠っているだけの自分よりもずっと、家の外でも中でも雨を満喫している彼女を見ると、もう少ししっかりしなくてはと思うのだけれど。 「これなーんだ」 彼女の懐から出てきた二つ折りの財布を見たときに、なんだか何もかもがこのためにあったように思えて、つい笑い出してしまった。 「忘れるわけないだろ?俺が買ったんだから」 瞼の裏に夢の続きを思い浮かべていた。あのときの彼女のように。

15 23/10/01(日)00:58:51 No.1107648678

「まあ、理由はそんな感じ。 説明になった?アタシにも上手く言えないけど」 上手く言葉にできなかった照れ隠しのように彼女はくるりと前を向いたけれど、愛おしそうに昔を懐かしむ彼女の姿を見るだけで、彼女が何を伝えたいのか、わかった。 「ううん、わかったよ。 物語が欲しいんだな。シービーは」 彼女が欲しいのは財布じゃない。 大切なものをしまっておける宝箱が欲しかったのだ。その中の宝物と同じくらい、愛おしいと思えるような。 振り返った彼女は、少し驚いたような顔をしていた。 「よくわかったね。アタシにもわかんなかったのに」 「ごめん、何も考えないで言っただけだから」 知ったようなことを言ってしまったかと思って咄嗟に謝罪の言葉を口にしたけれど、そんな懸念を他所に、彼女はもう一度楽しそうに微笑んだ。 「いいよ、気にしなくて。 …うん。いいね。そういう言い方。 きみと話すと、自分でもわからないことに答えをもらえる気がする」

16 23/10/01(日)00:59:18 No.1107648817

自分の感じたものが、彼女の想いに輪郭を与えてゆく。考えてもみなかったことだけれど、自分の言葉が彼女の中で生き続けるなら、これほど嬉しいことはない。 そんな喜びに浸っていた心には、彼女の言葉が清らかな水のように染み渡る。 「領収証、アタシにちょうだい」 言われるがままに財布から領収証を出して彼女に渡すと、彼女はそれを指先で摘んで、もう一度何かに感じ入るように目を細めた。 「借りじゃなくてさ。想い出にしとくね、これ」 その紙切れをひらりと掲げて、愉しそうに首を傾げる仕草に、いつの間にか夢中になっていた。

17 23/10/01(日)00:59:43 No.1107648946

そんな彼女の言葉がいつまでも忘れられなくて、その年の誕生日プレゼントは柄にもなく財布を贈った。 できるだけ頑丈で、それでいて嵩張らない。何より、彼女が手に持つ姿にぴたりとはまるような、飾らない洒脱さがほしかった。それを全て満たすものを探し出すのは骨が折れたし、それなりに懐も寒くなったが、元々彼女のお陰で稼いでいるようなものと思えば、多少は奮発しなければ逆に申し訳ないと思った。 受け取ったときに、彼女は特別な言葉は発さなかった。けれど言葉を紡ぐより、それを懐から出して手にすっぽりと収まる感触を味わうことを優先していた彼女がやがて満足そうに微笑んだのを見ると、贈ってよかったと心から思ったものだった。

18 23/10/01(日)00:59:57 No.1107649005

「今でも全然使えるよ。造りも、デザインも。 いいの買ってくれたよね、ほんとに」 ぱたり、ぱたり、と、二つ折りの財布が御辞儀をする音で拍子を取るようにして、彼女はあのときと同じように目を細めた。ひとしきりそうしたあとに、今まで忠実に彼女に従いてきたことを労うように、指先で優しくそのなだらかな肌をなぞって。 「普段遣いにするにはちょっと勿体なくなっちゃって。特別なときに持ってくようにしてたんだ。旅に出るときとか」 学園での彼女は相変わらずそのままお金を持ち歩いていたし、自分も制服の彼女があの財布を使っている姿を上手く想像できなかった。 好きな服を来て好きな場所に行く彼女を思い浮かべて買ったから、当然のことだったのかもしれないけれど。 「デートのときに使ってくれてるの、知ってたよ。嬉しかった」 彼女と共に過ごして、いつしかトレーナーとその担当以上の深い仲になってからは、彼女がその財布を使ってくれているとわかったときの嬉しさもひとしおだった。自分の想いを、まだ彼女は大切にしてくれているのだと。

19 23/10/01(日)01:00:09 No.1107649064

いつしか彼女は、その財布を持たなくなった。 贈ってから既に数年が経っていた。飽きたでも壊れたでも理由はいくらでもありうるし、それをいちいちこちらに報告する必要もない。 何者も彼女の錘にはなれない。彼女の中で、ひとつの思い出が自然に風化しただけのことなのだろう。だから、それに一抹の寂しさを感じるに留めた。 「でも、どんどん携帯で会計できるようになったじゃん。財布持たなくてもいいようになっちゃってさ。 失くしたくなくて、戸棚の奥に入れたままだったんだ」 それが今、目の前にある。飽きたからでも壊れたからでもなく、大切に想っていてくれたから、ここに残っている。 流れた時間の分だけ、それがただ嬉しかった。 「久しぶりに逢えたんだ。仕舞ってた思い出に。 やっぱりしっくりくる。色も、形も、手触りも。きみにもらってはじめて持ったときに、こんなにぴったりはまるものをアタシに内緒で選べるんだって、びっくりしたよ。 嬉しかったな。あのときも、今も」

20 23/10/01(日)01:00:25 No.1107649147

少し得意気に微笑む彼女の手には、一万円札が三枚握られていた。 「びっくりした?これに見合った中身にしたくてさ、結構入れるようにしてたの。 だから、今度はアタシが奢るよ」 本当に、なんて幸運だろう。 預けていた想い出が、何倍にも大きくなって返ってくるなんて。 「ありがとう。どこがいい?」 「奢るって言ったじゃん。きみの好きなところがいいな」 いつもの癖でつい行き先を委ねようとしてしまって、彼女に苦笑されてしまう。 彼女の言う通りだ。自分の口で言わなければ、きっと意味がない。 「じゃあ、あのときの店で」 「…ふふっ。いいね。そうこなくちゃ」

21 23/10/01(日)01:00:35 No.1107649209

一緒に歩いてきたのだな、と心から思う。 財布の中に仕舞っていた古びた一枚の領収証が、想い出を辿る乗車券に変わる日まで。 重ねた時間に思いを馳せながらあの場所に行くのは、きっと何よりも楽しいだろう。 これでまた、想い出を作ろう。もう一度逢える日が、また楽しみになるように。

22 23/10/01(日)01:00:58 No.1107649320

店の中は相変わらず良く古めいていて、あのころから時間が流れていないのではないかと錯覚してしまう。客脚が疎らで店の雰囲気を存分に楽しめるところも、注文から間もなく出されたハンバーグの味わいも、何もかも変わっていない。 想い出を辿る手助けをしてくれているような店の空気に中られて、ふたりとも昔話ばかりしてしまう。そのために来たのだから、当然かもしれないけれど。 「遅くまでやっててよかった。あのときは喉も乾いて、お腹も空いてたからさ」 「そうだなぁ…ごめん」 数年越しの謝罪を、そんな空気に乗せられたままなんとなく口にした。何故謝るのかわからないといった風に、くりくりと見開いた瞳のまま首を傾げる彼女の反応も、ある意味では必然だろう。 「なんで?」 「いや、俺がいなかったら、もっと早く着けたなぁって」

23 23/10/01(日)01:01:09 No.1107649390

得心がいったように耳をぴんと立てる可愛らしい仕草も、頬杖をついたまま優しく微笑むその表情も、何もかもが愛おしくなる。 彼女がそんな顔をするのを何度も見てきたはずなのに、一度だってそれに飽きたことはない。 「きみがいなかったら、あの服屋も銭湯にも気づかなかったよ。きみがいなかったら、夕陽を見る前に帰っちゃってたかもしれない。 不思議だね。誰かの歩調がこんなに心地いいなんて、思ってなかった」 彼女と過ごした時間に混ぜれば、どんな感情も飲み干せてしまう気がする。 全部、想い出に溶けてしまえばいい。あのとき感じた後ろめたさも、そんな偶然から生まれた喜びも。

24 23/10/01(日)01:01:21 No.1107649433

「…違う誰かがそばにいることで、見えるものもある。 ルドルフはここまでわかってたのかな?」 「?」 目を細めながら小さな声で呟いた彼女の言葉が届かなくて、もう一度耳を済ませる。そんな仕草を見て、彼女は少しだけ恥じらうように指をくるくると絡めた後で、微笑みながら耳元で囁いた。 「なんでもないよ。 きみがいてよかった、ってこと」 本当に不公平だ。少しは照れてくれたかと思ったのに、耳まで真っ赤にしたこちらの顔を見て、結局彼女は愉しそうに笑っている。 小さな呟きの意味も、結局ははぐらかされてしまった。それすらも喜びに変わってしまうのを感じて、どこまでも彼女に毒されているなと自嘲する。 どうしようもなく嬉しい言葉ではぐらかされるなら、それもいいと思ってしまうほどに。

25 23/10/01(日)01:01:53 No.1107649585

あのときみたいにきみと同じ速さで歩いてみたくて、気分良く酔ったきみを誘って、夜の空気の中に駆け出す。 「歩いて帰ろっか」 アタシが前で、きみは後ろ。アタシの背中にぴったりとついてくるきみを感じるのが、いつのまにか好きになっていた。 ポケットの中にある感触は、久しぶりに触れても手にしっくりと馴染んだ。吸い付くような滑らかさが愛おしくてずっと触っていたくなるけれど、この感触が失われてしまうのが惜しくて、結局は仕舞い込んでしまった。 「なんで、革にしたの?」 歩きながら振り返って、何の気なしに彼に訊いてみる。あまりにぴたりと合うから、彼がこれを選んだ理由を知りたくなってしまった。 「シービーに似合うと思って。飾らないけど上品なところとか、そっくり」

26 23/10/01(日)01:02:03 No.1107649639

きみの目が好きだ。ものの見方がアタシとは何もかも違うのに、それがぴったりとアタシの中に嵌まる。アタシだけでは見えないものを、きみの瞳は見つけてくれる。 「革ってさ、使って自分で育てていくんだって」 アタシの好きな世界を愛して、その美しさを言葉にしてくれる。そのために、アタシの世界を誰よりも澄んだまなざしで、真剣に見つめてくれる。 そういうきみの在り方が、何よりも好きだ。 そんなきみと過ごした時間を、この財布に触れると思い出す。のっぺりと広がるだけだった茶色の平原に、染みや艶が刻まれてゆく。 それがどれだけ美しいか、アタシだけが知っている。 「アタシは好きだよ。変わらないものより、素敵に変わっていくもののほうが」 もう、元には戻らない。戻りたくない。

27 23/10/01(日)01:02:19 No.1107649731

ただ好きなだけなら、使い惜しみなんてしないよ。 きみが考えて選んでくれたって思ったら、もっともったいなくなっちゃったんだ。 可笑しいね。こんな気持ちになったのなんて、生まれて初めてだよ。 きっと、変わっちゃったんだ。この財布みたいに。 でも、そういうアタシもいいなって、きみといるとそう思うんだ。 「ありがとう。もらってよかった。 想い出も入れておけるって、いいね」 何も言わずに塞いだ唇からは、彼が飲んでいたコーヒーの味がした。

28 23/10/01(日)01:02:30 No.1107649788

初めてしたみたいに、恥ずかしそうにそっぽを向くきみが、可愛くて仕方なくなる。 アタシを包むきみの掌の温度も、使い続けて指先で鞣された革の風合も、全てに意味があったと思える。 こういうこともできるくらい、きみとの時間を積み重ねてきたってことだから。 「だからさ、もっとほしいな。 入らなくなって溢れても、幸せだって思えるくらい」 物事が想い出に変わるためには、それなりの時間が必要だから。それを待ち続ける時間も、きみとなら楽しいと思えるから。

29 23/10/01(日)01:02:53 No.1107649901

きみとの想い出は、きっと重ねた時間の味がする。 それを感じるのが、何よりも好きなんだ。 ──だから、もっときみがほしいな。

30 <a href="mailto:s">23/10/01(日)01:03:59</a> [s] No.1107650249

おわり シービーの想い出になりたいだけの人生だった fu2624504.txt

31 23/10/01(日)01:08:21 No.1107651734

新しい財布にトレーナーと行った海の景色とかが入ってたりするんだよね

32 23/10/01(日)01:08:24 No.1107651750

超大作だった……

33 23/10/01(日)01:10:35 No.1107652406

底抜けに顔がよくて誰よりも自由な娘から全力の愛を向けられてみたかった

34 23/10/01(日)01:14:46 No.1107653811

多分このシービーの部屋にはトレーナーからもらったものを大切にしまっておく小さくて綺麗な棚がある

35 23/10/01(日)01:17:59 No.1107654810

後ろから抱きついて驚かせるのが好きそうなシービー

36 23/10/01(日)01:23:10 No.1107656341

背中合わせに座るのも好きそう

37 23/10/01(日)01:28:53 No.1107658027

壊れないように使い続けるし例え壊れても大切な想い出だから遺しておくんだ…

38 23/10/01(日)01:38:24 No.1107660619

行った先でトレーナーがシービーの写真ばっかり撮るようになっててほしい シービーと風景撮るとき限定で下手なカメラマンより上手くなるしシービーもトレーナーが見た景色を切り取った一枚が好きなんだけど一緒に写ろうって言ったら俺はこの景色やシービーみたいに綺麗じゃないからって遠慮されるときだけはむっとしててほしい それで財布の中にはトレーナーが撮った写真のほかにシービーが不意打ちでトレーナーとくっついて撮った一枚もあってそれをすごく大事にしててほしい

39 23/10/01(日)01:39:46 No.1107660958

思い出を触れるような形にしたがるんだ…

40 23/10/01(日)01:41:19 No.1107661369

シービーの自由を変えちゃった責任は取らないとね…

41 23/10/01(日)01:42:08 No.1107661557

シービーは歳を重ねたらどんな感じになるだろうか… 学生の時点でだいぶ大人びてるからそんなに見た目も変わらないのかな

42 23/10/01(日)01:42:31 No.1107661640

自由ってのはわがままである CBが自由にトレーナーを自分のものにしようとしたらそれはわがままなんだがトレーナーはそれを受け入れる心づもりがある

43 23/10/01(日)01:43:39 No.1107661955

どんなものを入れてるかたまに見せて思い出話しててほしい トレーナーの寝顔の写真とかも持ってていっぱいからかっていちゃいちゃしててほしい

44 23/10/01(日)01:46:07 No.1107662581

>シービーは歳を重ねたらどんな感じになるだろうか… >学生の時点でだいぶ大人びてるからそんなに見た目も変わらないのかな 雰囲気のある美人だけど若々しさもあって大人になってもいつまでも爽やかで綺麗なままなんだよね

45 23/10/01(日)01:48:52 No.1107663237

>自由ってのはわがままである >CBが自由にトレーナーを自分のものにしようとしたらそれはわがままなんだがトレーナーはそれを受け入れる心づもりがある 好きなひとに独り占めされるのは幸せなんだよってことをシービーに教えてあげてほしい そしてシービーに遠慮なく自分のものにされちゃってほしい

46 23/10/01(日)01:51:02 No.1107663791

>好きなひとに独り占めされるのは幸せなんだよってことをシービーに教えてあげてほしい >そしてシービーに遠慮なく自分のものにされちゃってほしい トレーナーがシービーに教わるぞ

47 23/10/01(日)01:52:10 No.1107664126

「好きなものはできるだけ大切にしたいんだ」って財布に軽くキスしてみせるんだよね そのあとにすかさずトレーナーの唇も奪って「言ったでしょ?好きなものは大事にしたいって」って微笑んでるんだよね

48 23/10/01(日)01:59:03 No.1107665710

>トレーナーがシービーに教わるぞ トレーナーの自由を奪っちゃうかもしれないって悩むシービーに「シービーにもらってほしい。それが一番幸せだから」ってシービーのものになりにいくのもいいし好きなものは好きでいいじゃんって開き直ったシービーに抱きしめられて「幸せ?」って笑顔で訊かれて「…うん」って答えてシービーのものにされちゃってもよい

49 23/10/01(日)02:06:59 No.1107667468

膝の上に遠慮なく頭乗っけてころころ回って膝枕おねだりするシービー

50 23/10/01(日)02:08:22 No.1107667754

考えて選んでくれたってわかるものや手作りのものが好きなシービー

51 23/10/01(日)02:11:03 No.1107668344

両親みたいになる自分は想像できないしそうしようとも思ってないけど幸せを感じられることをいっぱいしてたらいつの間にか恋人の距離感になっててほしい

52 23/10/01(日)02:49:36 No.1107675072

たっぷり時間をかけて幸せの感触に気づいていってほしい

53 23/10/01(日)02:57:25 No.1107676067

物じゃなくて心が欲しいからプレゼントねだったりするようになるんだ…

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