ここでは虹裏imgのかなり古い過去ログを閲覧することができます。
23/09/14(木)17:15:09 No.1101598798
白っぽく色の抜けた赤毛はカサカサに乾いてよじれ、額から頬にかけてへばりついている。柔らかな皺がいく筋も刻まれた、透けるような象牙色の肌は、色ガラスで作ったオブジェか、でなければ干物になる途中の魚を思わせた。 うっすら開かれたまぶたの下の、色素の薄い瞳が、不安定にふるえながら右から左へさまよう。その視線が俺の上へ止まったタイミングをとらえて、俺は立ってベッドの傍らへ進み出た。 「おはようございます。初めまして、ミセス・マリア・リオボロス」
1 23/09/14(木)17:15:22 No.1101598845
リールで回収したマリア・リオボロスの棺をドクターが検査した結論は、 「不完全」 だった。 「これって正確には遺体じゃなく、ヒュプノス病の末期状態になったところを冷凍したんだね。でもプロセスが不完全だし機器の調整も甘い。少しずつだけど細胞の損壊がはじまってる。ヒュプノス病のことも色々わかってきたから蘇生はできそうだけど、今すぐやって成功率は六割ってとこ。一年後にはゼロになるかな」 報告を聞いた俺はオルカの幹部達と相談し……最終的に、今すぐ彼女を蘇生させることにした。賛否は色々あったが、この場合まず優先されるべきはワーグとの約束だと判断したのだ。
2 23/09/14(木)17:15:56 No.1101598979
「…………要は、アンヘルは死んだ。人類も全部滅んだ。地上にいるのはバイオロイドと鉄虫だけ、と」 「はい。ここにいる俺と、たった今目覚めたあなた以外は」 「………………」 マリア・リオボロスはリクライニングベッドに背中を預けたまま、天井と壁の境目あたりへ視線を投げていた。事前に読んだ資料では、整形手術によって七十を越えても若々しい外見を保っていたとあるが、冷凍されている間に整形の効果も抜けてしまったのか、目の前にいるのはどう見ても年相応の老婆だ。皺の刻まれた顔には何の表情もなく,俺の話を信じてくれたのかどうか、それ以前に聞いているのかすらわからない。 もういちど最初から説明した方がいいかしらと思い始めたころ、マリア・リオボロスはようやく枯れ枝のような指を持ち上げ、病室の窓をさした。 「窓を開けてもらえる?」 俺は言われたとおりにカーテンを引き、窓を開けはなった。部屋の隅に控えていたラビアタがさっと立ち上がり、女帝の肩まで毛布を引き上げる。北極圏の風が、病室に吹き込んできた。
3 23/09/14(木)17:16:11 No.1101599034
窓の外には雪に覆われた原野と、そして冷たい青灰色の海が広がっている。女帝は弱々しい手で酸素マスクを外し、深く息を吸い込んで、そして少し咳き込んだ。 「ともかく、奴のいない世界の空気を吸うことはできた」 他人事のように彼女はそう言って、うすく笑った。 「……ミセス・マリア。ここには、エンプレシスハウンドの隊員がいます。彼女たちに会っていただけませんか」 「……?」それは何? というように、女帝はしばらくぽかんとした顔になった。「……ああ。あれか」 手を上げて合図すると、ドアのロックが開き、薔花、チョナ、そしてワーグが順に病室へ入ってきた。 薔花は顔をしかめて目をそらしている。チョナはいつも通りの態度に見えるが、笑顔が固い。そしてワーグは、 「女帝陛下! マリア様……っ!」 女帝の姿を一目見るなり駆けよって膝をつき、そのまま泣き崩れた。ベッドのふちに顔を埋めるようにして嗚咽するワーグを、女帝はただぼんやりと眺めていた。
4 23/09/14(木)17:16:38 No.1101599154
ラビアタの目配せで、俺は外に出た。よそ者がいない方が話しやすいこともあるだろう。どのみち、あまり長時間接触しないように言われていたのだ。 「相手は三大企業の幹部、『あの』女帝マリア・リオボロスです。人間と会話した経験さえないご主人様が彼女と渡り合うなどとんでもない。ハムスターが狼の相手をするようなものです」 ラビアタの言い様はあんまりだと思ったが、反論もできない。俺はそのまま廊下をすすんで、突き当たりに設けられた監視用の部屋へ入った。この小さな療養施設は、女帝のために大急ぎで建てたものだ。医療設備が整っているのはもちろんだが、室内の様子は厳重に監視され、録画されている。施設の周辺には常にスナイパーが控えており、最悪の場合には建物ごと爆破して海に沈めることもできるようになっている。 モニタを睨んでいたシラユリが、俺の方へ小さく会釈をした。彼女の隣に座って、監視カメラの映像をいっしょに見る。
5 23/09/14(木)17:16:58 No.1101599233
マリア・リオボロスはベッドに横たわったまま、エンプレシスハウンドと言葉少なに会話をしていた。大半は今の世界の状況に関する質問や確認だったが、自分のことやワーグ達に関する他愛ない話もあった。喋っているのはほとんどワーグで、たまに薔花やチョナも短い相づちを返す。俺が映像を見ていた間、女帝は一度も笑わなかったが、かといって声を荒らげたり、怒りや憎しみの感情を見せることもなく、ただ淡々とまわりの物事を見聞きしているようだった。 それは全体として、上品で知的で心身のおとろえた、ごく当たり前の老婦人の姿に見えた。怨念に凝り固まった残忍な女帝ではなく。 「まだショックが抜けてないんだろうか。もしかして、脳にダメージがあったとか?」 「というよりは、むしろ……」シラユリは細いきれいな指で、下唇のまわりをゆっくり撫でた。 「彼女は滅亡前の世界で、あまりに多くの物事を……財産や、計画や、敵や味方を抱えていました。それらが一度に消えたために、価値判断や情緒的反応の基準まで同時に失われ、ある種の……殻が取れたというか、精神的に初期化された状態になっているのでしょう」
6 23/09/14(木)17:17:14 No.1101599305
「つまり、今の状態が本当の彼女ってことか?」 「それは微妙な問題です」シラユリはうすく笑った。「蝋燭の芯だけが本当の蝋燭だと言えるでしょうか?」 ワーグはずっとベッドの側にひざまずき、主人の足元に控える犬のように、幸せそうに頭を垂れていた。そして女帝は、その頭をゆっくりと撫でてやっていた。 慈愛に満ちた母のように、などという感じでは全然ない。しかし、優しくないわけでもない。例えるならそれは、他人の子犬を撫でるような手つきだった。親密さも思い入れもないが、「これは優しくしてやるべきもの」ということだけはちゃんとわかっている。そんな風に見えた。
7 23/09/14(木)17:17:59 No.1101599496
「時間です。これ以上は患者の体に障ります」 ラビアタの指示でワーグ達が外へ出されると、監視部屋へ呼んできて話を聞く。 「あれが女帝? アタシを罵っては殴ってきたあのババアと同じ人間だなんて思えない。本物なの?」 「いっぺんに三十歳も老けたみたい。肉体的にはあの頃から大して時間たってないはずなのに、不思議だね~」 「いや。あれはマリア様だ。間違いなく」戸惑いを隠せない薔花たちとは対照的に、ワーグはきっぱりと言った。 「頭撫でてくれたからとかじゃなくて?」 チョナのからかうような言葉にも、ワーグは動じず首を振る。「そんな表層的な理由ではない。マリア様は本来、穏やかで思索的な方なのだ」 「本当かよ」 肩をすくめる薔花を無視して、ワーグは俺に深く頭を下げた。 「あらためて感謝する、司令官。最後の願いが叶った。もう思い残すことはない」
8 23/09/14(木)17:18:31 No.1101599626
翌朝、マリア・リオボロスが呼んでいるとの連絡をうけ、俺はふたたび病室を訪れた。 「私には、どれだけ時間が残っている?」 俺が部屋に入るなり、女帝は挨拶もなしにいきなり言った。俺は一瞬、言葉に詰まって立ちすくんでしまい、彼女はそれで大体のところを察したようだった。 マリア・リオボロスは死から蘇ったわけではない。ヒュプノス病の症状を中断させた結果、生命活動が一時的に再開しただけだ。不完全な冷凍で傷ついた神経は、重金属被覆手術には耐えられない。彼女はほどなく、永遠の眠りに戻ることになる。それは最初からわかっていたことだった。 ドクターの見積もりによれば、覚醒から再入眠まで長くて48時間。 実際のところそういうタイムリミットがなければ、いかにワーグのためといえど、レモネードデルタとの戦争がまだ続いているこの時にブラックリバー上層部の人間を復活させるなどという選択はできなかっただろう。 隣のラビアタが肯定の目配せをしている。俺は咳払いをしてから、事実をそのまま告げた。
9 23/09/14(木)17:18:55 No.1101599723
女帝は顔を冷たくこわばらせた。さすがに、あと一日というのは予想を超えていたのだろう。しばらく黙ってから、彼女はひどく虚ろに聞こえる声で言った。 「……私にさせたいことは何だ。あるいは、訊きたいことは」 「してほしいことは別にありません。……鉄虫とヒュプノス病、星の落とし子について、知っていることがあれば教えてください。それと、PECSとレモネードシリーズについても」 「どれも大したことは知らんな。星の落とし子とやらは聞いたこともない。何だそれは?」 俺は星の落とし子とヒュプノス病の関係について、できるだけかみくだいて説明した。女帝は大きく息をついて、枕に頭をあずけた。 「ブラックリバーの機密でも訊かれるのかと思ったが」 「ブラックリバーがもうないのに、機密など意味がないでしょう」 「それはそうね」女帝はつまらなそうに鼻を鳴らしてから、「つまり私を蘇生したのは、ワーグに私を会わせるためか」 それだけではないが、それが一番大きな理由なのは確かだ。頷いてみせると、女帝は唇の端をゆがめた。 「バイオロイドのために、人間の命を左右するとは……確かに、ここは私の生きる時代ではないようね」
10 23/09/14(木)17:19:18 No.1101599815
そうして彼女はぐったりと横になったまま、遠い目線を窓の外へ向けた。 俺はだまってその姿を見ていた。滅亡前の世界を知らない俺には、彼女の本当の胸中はわからない。たとえばある朝目覚めたら見知らぬ誰かに「もうオルカもレモネードオメガも、鉄虫も星の落とし子も、誰もいません」と言われたら、どう感じるだろうか。 長い時間が過ぎた。女帝は枕から頭を上げ、きっぱりとした口調で俺に告げた。 「窓を開けて。それから、エンプレシスハウンドを呼びなさい」 駆けつけてきたワーグ達を女帝はベッドの前へ整列させ、その顔を順繰りに眺めてからおごそかに言った。 「今日までご苦労だった、エンプレシスハウンド。お前達の任を解く。私から命じることはもうない。好きなように生きるがいい」 薔花は忌々しげに目を伏せて肩をすくめた。チョナはおどけた調子でひょいと頭を下げた。膝をついて深々と礼をしようとするワーグだけを、女帝は呼び止めた。 「ワーグ、お前だけは別よ。最後の任務を与える。私を殺しなさい」 「はっ…………?」 ワーグが凝然と動きを止めた。俺も聞き違いかと思って、何度か目をしばたたいた。
11 23/09/14(木)17:19:43 No.1101599907
「ミセス・マリア、一体何の……」 「黙れ」 俺を遮ったのは女帝ではなく、ワーグだった。 「女帝は冗談など仰らない。言い間違いをすることもない」 食いしばった歯の間から、一言ずつ押し出すような言葉だった。 「やはりお前は他とは違うわね」女帝は満足げに言った。 「どうせ明日にはない命。お前の百年にわたる精勤に報いるものは何もないが、せめて私の死をお前にやろう」 ワーグは肩を小さく震わせ、跪いたまま動こうとしない。ようやく顔を上げたとき、その白眼がまっ黒に染まっているのが、俺にも見て取れた。 「本当に……よろしいのですね」 「古来より、子は親を殺し、人は神を殺して、自己を確立してきた。次はバイオロイドの番かもしれない。せいぜい立派に務めてみせなさい」 「薔花。チョナ」 立ち尽くしていた二人は、ワーグに小さく名を呼ばれて我に返ったようだった。「外に私の装備が置いてある。持ってきてくれ」 ラビアタがドアを開ける。二人はワーグの言葉に一言も返さず、小走りに出ていった。 「司令官。……外に出ていてくれないだろうか。殺人を犯すところを、見られたくない」
12 23/09/14(木)17:19:53 No.1101599950
「司令官。……外に出ていてくれないだろうか。殺人を犯すところを、見られたくない」 消え入るような声だった。俺はマリア・リオボロスに最後の一礼をして、部屋を出た。 廊下には、ワーグの武器スコルとハティを抱えて戻ってきた薔花たちがいた。俺はここでも何も言わず、目礼して二人とすれ違い、そのまま建物の外へ出た。 スコルとハティはワーグの身長と同じくらいある長大な刀だ。狭い病室で振り回すのには向いていないが、生涯で最も重い任務を果たすのに、使い慣れた愛用の武器以外を使う気にはなれないのだろう。ワーグの腕前なら、見事に扱ってみせるに違いない。 風が冷たい。こんな時煙草を吸えたらいいのだろうかと、ふと思った。 病室の窓ごしに、ワーグのすすり泣く声が聞こえてきた。
13 23/09/14(木)17:20:04 No.1101599999
立ち会うのは俺と護衛数人だけという、寂しい葬儀だった。 マリア・リオボロスの蘇生はもともと限られた幹部にしか知らされていない。この墓が誰のものであるかも、ほとんどの隊員は知ることがないだろう。 ワーグは誰よりも長い間、その簡素な墓の前に頭を垂れていた。 「私の命は女帝のものだった。今日この時からは、私のものだ」 最後に小さくそう呟いて、ワーグは立ち上がった。 「そして、私はこの命を司令官、あなたのために使う。あらためて、そう誓います」 こちらを振り向いた彼女は目尻に涙を浮かべていたが、今まで見たこともないような、澄んだ力強い笑顔をしていた。俺は手を差し出し、ワーグはその手をかたく握り返してくれた。
14 23/09/14(木)17:20:22 No.1101600097
オルカへ戻る道すがら、俺は二日間女帝の看護を担当してくれたラビアタに礼を言った。万が一のことを考えて、ブラックリバー製以外かつ人間の強制力が絶対効かないとわかっている彼女にしか頼めなかったのだ。 「ご主人様のためですから、何でもありません」 ラビアタは涼しい顔で言ってくれたが、旧時代の人間、それも企業幹部と接することが辛くなかったはずはない。俺は感謝の気持ちを込めて、隣を歩くラビアタの手をとった。 「でもな、ラビアタ。マリア・リオボロスのあの様子を見ていて、俺はこんな風にも思ったんだ」 バイオロイドに対して信じがたいほど残酷で邪悪な仕打ちを繰り返してきた旧時代の人間たちは、しかし決してその本質から残酷で邪悪だったわけではない。おそらくは時代が、社会が、彼らをそのような人間にしてしまったのだ。まったく新しい世界、まっさらの状況でバイオロイドと向き合えば、ちがう関係を築くこともできる。そう希望を持ってもいいはずだ。 「…………」 ラビアタはだまって微笑んだまま、俺の言葉を肯定も否定もしなかった。
15 23/09/14(木)17:20:33 No.1101600139
ある日、マリア・リオボロスの墓の前にロクがいるのを見かけた。 ロクはつい先日まで、ずっと長期遠征任務に出ていた。あれが誰の墓なのか、俺はまだ伝えていない。 ハウンドの誰かが教えてやったんだといいなと、俺は思ったのだった。 End
16 23/09/14(木)17:23:13 No.1101600793
ワーグちゃんを幸せにしたい…ご主人様と再会させてあげたい… と思ったら捏造if話を書くしかなかった まとめ fu2568360.txt0
17 23/09/14(木)17:30:50 No.1101602707
ワーグ いいよね
18 23/09/14(木)17:33:40 No.1101603391
ロクくん…いろいろ複雑だろうな…
19 23/09/14(木)17:39:22 No.1101604785
女帝復活をエサに長年デルタに使われ続けて 同じく女帝復活を条件にオルカに寝返った挙げ句 遺体は腐ってて蘇生不可能でした!はあんまり可哀想すぎる…
20 23/09/14(木)17:45:11 No.1101606315
10章のロクは最高にカッコいい上に可愛かったからな…
21 23/09/14(木)17:50:18 No.1101607701
お、出会えた 11月のマイオルカマーケットに新刊は出す予定? 「ある日のオルカ」見て、ウチもR18小説本出す予定になったんよ
22 23/09/14(木)17:54:36 No.1101608871
人間復活は思い切ったifですね… 面白かったです
23 23/09/14(木)17:56:18 No.1101609332
>11月のマイオルカマーケットに新刊は出す予定? >「ある日のオルカ」見て、ウチもR18小説本出す予定になったんよ 出す予定で準備を進めてましたが延期になっちゃったのでどうしようか考えてます そして嬉しいことを言ってくれる書こうぜ!
24 23/09/14(木)17:58:36 No.1101609934
>出す予定で準備を進めてましたが延期になっちゃったのでどうしようか考えてます >そして嬉しいことを言ってくれる書こうぜ! >https://twitter.com/lo_onlyev/status/1700069511096099138 あらほんと、延期になってた! 書く方に集中して気づいてなかった、そういう意味でも感謝ですわ
25 23/09/14(木)18:09:09 No.1101612841
相変わらずいい文章を書くわ
26 23/09/14(木)18:29:17 No.1101618778
最近プレイしてないから ゲーム内テキストかと思ったわ
27 23/09/14(木)18:33:10 No.1101620000
ゲーム内だと色んな意味でできない話だよねこれ いい意味でファン活動らしい内容だ
28 23/09/14(木)18:37:22 No.1101621364
こっちもマイオルカマーケット2は申し込みしようと表った矢先にあの流出騒動で… せっかく時間できたし作業だけは進めよう
29 23/09/14(木)18:59:36 No.1101628600
凄く良い二次創作だった