23/03/05(日)01:49:47 諸葛亮... のスレッド詳細
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画像ファイル名:1677948587026.jpg 23/03/05(日)01:49:47 No.1032982868
諸葛亮泣いて馬超を斬る話は、中国の小説『三国志演義』に登場する有名なエピソードです。 物語の背景は、蜀漢の諸葛亮が北伐を進めていた時期です。当時、馬超は蜀漢に反旗を翻し、蜀漢の将軍・魏延を攻撃していました。諸葛亮は魏延の救援に向かい、馬超との戦いに勝利します。その後、諸葛亮は馬超の捕虜となった者たちを釈放し、馬超と和解することを望みます。しかし、馬超は諸葛亮を信用せず、攻撃を続けます。 このような状況の中、諸葛亮は一人で馬超の陣営に乗り込みます。諸葛亮は馬超に対して、長期戦争の継続は農民や一般市民にとって苦しいことだと説得します。しかし、馬超は諸葛亮を信用せず、攻撃を続けることを決めます。このとき、諸葛亮は「私はあなたに対して戦うことを避けたかったのに、あなたは私を信用せず、残忍であることを示している」と涙ながらに語ります。 最終的に、諸葛亮は泣きながら馬超を斬り、彼を討ち取ります。このエピソードは、諸葛亮の人柄と優れた謀略家としての能力、そして彼の慈悲深い面を表現するものとして有名です。
1 23/03/05(日)01:51:10 No.1032983242
謀略…?
2 23/03/05(日)01:51:58 No.1032983477
>当時、馬超は蜀漢に反旗を翻し、蜀漢の将軍・魏延を攻撃していました。 開幕からハチャメチャすぎる
3 23/03/05(日)01:52:03 No.1032983496
諸葛亮泣いて劉禅を斬るの話を教えてください 残念ながら、諸葛亮泣いて劉禅を斬る話は『三国志演義』には存在しません。諸葛亮は蜀漢の重要な軍師として、劉備とその後継者である劉禅を支え、彼らのために尽力しました。蜀漢の滅亡後、諸葛亮は病に倒れ、自らの死期を悟りましたが、劉禅を憂いて彼に対して、後継者の選定や重要な政策の決定を助言する手紙を書き送りました。 諸葛亮が死去した後、劉禅はその手紙に従い、諸葛亮の功績をたたえることを決め、諸葛亮を武官として諡しました。このように、諸葛亮は生涯を通じて劉備と劉禅を支え、彼らに尽くしました。 馬超は斬ってたってこと?
4 23/03/05(日)01:53:38 No.1032983966
よく見ると諸葛亮と劉禅の話もめちゃくちゃじゃねえか!
5 23/03/05(日)01:55:21 No.1032984463
まあ馬超は蜀に入ってからろくに活躍しないから許すが…
6 23/03/05(日)01:56:04 No.1032984632
何1人で乗り込んで討ち取ってるんだよ
7 23/03/05(日)01:56:18 No.1032984703
斬ったのは魏延だろ
8 23/03/05(日)01:56:39 No.1032984790
恐らく馬超が三国鼎立まで涼州に勢力を維持していて蜀と同盟を結んでいたのに 諸葛亮が北伐の準備をしていると聞いてこちらに侵攻する気だと解釈して蜂起したと考えられる
9 23/03/05(日)01:57:07 No.1032984893
馬超に恨みでもあんのか!
10 23/03/05(日)01:57:30 No.1032984983
諸葛亮泣いてる馬超を斬るの話を教えてください すみません、私の前回の回答に誤りがありました。正しい話は、諸葛亮が泣いている馬超を斬る話ではありませんでした。以下に正しい話をご紹介いたします。 蜀漢の諸葛亮は北伐の途中、馬超率いる反乱軍と戦うことになりました。諸葛亮は敵将の馬超を捕らえ、和平交渉を試みましたが、馬超は蜀漢に対して強い敵意を抱いていました。 諸葛亮は馬超を殺すことを決め、処刑を執行する場に立ち会いました。しかし、諸葛亮は馬超のために涙を流し、馬超に対して「あなたが人材であることを知っているのに、あなたが反乱を起こすことができたのは、私たちが不十分な治世を行ったことによるものです。私たちはあなたを殺しても、あなたの死は意味を持たないでしょう。」と語りかけました。 諸葛亮は馬超に対する感情を抱きつつも、国家のために彼を処刑することを決めました。そして、諸葛亮は泣きながら馬超を斬りました。このエピソードは、諸葛亮が人間的な魅力を持ち、彼の判断が国家のために厳しいものであったことを示すものとして、三国志演義でも有名です。
11 23/03/05(日)02:01:23 No.1032985834
馬超と言えば反乱と言う風潮
12 23/03/05(日)02:01:24 No.1032985835
「諸葛亮泣いて劉禅を斬る」という話は、中国の古典小説『三国演義』に登場する有名なエピソードです。 物語の背景は、三国時代の中国が分裂状態にあった頃のことです。蜀の国の丞相である諸葛亮は、武将の劉備を支えて彼を蜀の皇帝として擁立しました。しかし、劉備が亡くなった後、その子である劉禅が後を継ぎ、諸葛亮は引き続き丞相として蜀を治めることになりました。 しかし、蜀の国は内部で腐敗し、外敵にも攻められていました。諸葛亮は、国家のためには劉禅を廃して、自らが即位するべきだと考えるようになりました。そこで、諸葛亮は劉禅に退位を促すため、自分が死ぬ前に自ら斬るという言葉を残しました。
13 23/03/05(日)02:01:37 No.1032985883
ある日、諸葛亮は劉禅を呼び出し、泣きながら彼に刀を渡しました。そして、自分が死んだ後に劉禅が国を守ることができるかどうかを問いかけました。劉禅は驚きながらも、自分ができる限り頑張ると約束しました。 諸葛亮は劉禅に対して感謝の意を示しながら、泣きながら斬りかかりました。しかし、諸葛亮は刃を止め、自分の過ちを悔いて涙を流しました。最終的に、諸葛亮は自分の命を燃やすことによって劉禅を脅して、彼が真の皇帝としての責任を果たすように仕向けました。 このエピソードは、諸葛亮が国のために自己犠牲を厭わなかったことや、劉禅が立派な人物に成長するきっかけとなったことなど、多くの教訓を含んでいます。
14 23/03/05(日)02:01:39 No.1032985895
>私たちはあなたを殺しても、あなたの死は意味を持たないでしょう。」と語りかけました。 酷すぎてダメだった
15 23/03/05(日)02:01:44 No.1032985916
馬超は不快だからな…
16 23/03/05(日)02:02:01 No.1032985972
とりあえず感覚で孔明に斬らせんな
17 23/03/05(日)02:02:16 No.1032986026
>諸葛亮は、国家のためには劉禅を廃して、自らが即位するべきだと考えるようになりました。 >そこで、諸葛亮は劉禅に退位を促すため、自分が死ぬ前に自ら斬るという言葉を残しました。 なるほど…
18 23/03/05(日)02:02:26 No.1032986051
頭に「死せる孔明」付け忘れてるぞ
19 23/03/05(日)02:02:28 No.1032986059
>諸葛亮は劉禅に対して感謝の意を示しながら、泣きながら斬りかかりました。しかし、諸葛亮は刃を止め、自分の過ちを悔いて涙を流しました。最終的に、諸葛亮は自分の命を燃やすことによって劉禅を脅して、彼が真の皇帝としての責任を果たすように仕向けました。 完全に頭おかしい人じゃねーか
20 23/03/05(日)02:02:47 No.1032986137
笑って魏延を八つ裂きに斬る
21 23/03/05(日)02:03:04 No.1032986183
馬超の生涯見てると群雄として健在だったら普通に劉備か諸葛亮と激突してそうなんだよね…
22 23/03/05(日)02:03:16 No.1032986240
>完全に頭おかしい人じゃねーか でもギリギリこんな感じの話中国史にありそうだし…
23 23/03/05(日)02:04:25 No.1032986499
>頭に「死せる孔明」付け忘れてるぞ 「死せる孔明泣いて馬超を斬る」とは、中国の三国時代において蜀の名将である諸葛亮が亡くなった後、魏の武将である馬超が蜀に反乱を起こした際の逸話です。 諸葛亮は、死の間際に蜀の将軍たちに「私が死んだら、必ず馬超を討て。彼は必ず反乱を起こすだろう」と遺言を残しました。そして、諸葛亮が亡くなった後、馬超は反乱を起こし、蜀の将軍である姜維を攻撃しました。
24 23/03/05(日)02:04:29 No.1032986514
>諸葛亮は魏延の救援に向かい これだけでちょっと笑ってる
25 23/03/05(日)02:04:35 No.1032986549
姜維は劣勢に立たされていたため、蜀の将軍である魏延に援軍を送るように命じました。魏延は援軍を率いて馬超のもとへ向かい、激しい戦いが繰り広げられました。 この時、魏延は馬超を追い詰め、ついには斬り落としました。しかし、その瞬間、魏延は突然涙を流し始め、泣きながら馬超の首を持ち上げました。その理由は、馬超がかつて魏延の師匠であったことから、彼にとっては殺すのが悲しいことだったからです。 この逸話は、蜀の名将である諸葛亮の遺志を継いで馬超を討った魏延の勇気と、かつての師弟でありながらも敵として立ちはだかった馬超と魏延の複雑な感情を描いたものとして、有名なエピソードの一つとして語り継がれています。
26 23/03/05(日)02:05:09 No.1032986676
曹操に敗れたあとの馬超のクソみたいな迷走っぷり見ている分には好き
27 23/03/05(日)02:05:22 No.1032986737
なんで歴史そのものはめちゃくちゃなのに話としてはちょっといい感じにまとめてくんだよ毎回!
28 23/03/05(日)02:05:52 No.1032986855
劉備からお前が皇帝になってもいいって言われてたもんな孔明は
29 23/03/05(日)02:06:03 No.1032986898
>「死せる孔明泣いて馬超を斬る」とは、中国の三国時代において蜀の名将である諸葛亮が亡くなった後、魏の武将である馬超が蜀に反乱を起こした際の逸話です。 AIくん馬超のことなんだと思ってんの?
30 23/03/05(日)02:06:14 No.1032986939
どいつもこいつも急に発狂して涙流してるな
31 23/03/05(日)02:07:22 No.1032987184
AIくんでも諸葛亮の劉禅への忠誠心は曲げられないのか… でも馬超は斬られていいんだね…
32 23/03/05(日)02:08:01 No.1032987319
魏延も大概反乱キャラなのに扱いが違うな…
33 23/03/05(日)02:08:02 No.1032987327
馬超アンチが変なことラーニングさせたとしか思えない
34 23/03/05(日)02:08:36 No.1032987420
ちなみに姜維の親父は馬超の反乱で死んだ疑惑があるので敵討ちになってる
35 23/03/05(日)02:09:01 No.1032987513
諸葛亮の温酒斬華雄の話を教えてください 三国時代、中国の蜀漢(しょかん)という国がありました。この国を率いていたのは劉備(りゅうび)という人物でした。彼は、自分の野望を叶えるために、戦いに勝つための知恵を必要としていました。 そこで彼は、天才的な軍師・諸葛亮(しょかつりょう)を招きました。ある時、劉備が諸葛亮に、曹操という敵将と戦うための策を聞くために訪ねました。すると、諸葛亮は「曹操は、非常に傲慢な将軍であり、彼の配下にいる華雄(かゆう)という武将は、勇猛果敢で知られている。しかし、彼には一つの欠点があります。それは、酒に弱いことです。」と答えました。
36 23/03/05(日)02:09:09 No.1032987535
一人で乗り込んで馬超斬ってくる軍師すごいな
37 23/03/05(日)02:09:12 No.1032987547
コピペしまくるよりurl貼った方がはやくない?
38 23/03/05(日)02:09:13 No.1032987549
そこで、諸葛亮は劉備に、「私が温めた酒を持って行き、これを用いて彼を酔わせてしまえば、容易に倒すことができます。」と語りました。そして、劉備は諸葛亮の策を採用し、諸葛亮が温めた酒を用意しました。 そして、劉備が温めた酒を持って華雄の陣営に向かい、華雄を招待しました。華雄は、劉備の招待を受け入れ、温めた酒を飲み始めました。しかし、酔いが回ってきたところで、劉備は華雄を斬りました。 この戦いは、蜀漢が勝利した重要な戦いの一つであり、その後、諸葛亮は劉備の軍師として活躍し、三国時代の歴史に名を刻むことになりました。
39 23/03/05(日)02:09:19 No.1032987563
一人で突っ込んで打ち取る優れた謀略家
40 23/03/05(日)02:09:58 No.1032987695
>魏延も大概反乱キャラなのに扱いが違うな… あくまで自分が総大将になりたかっただけで 別に蜀自体に反乱起こした訳ではないからな…
41 23/03/05(日)02:10:36 No.1032987863
酒の温かさを話に組み込むの放棄しやがったなこいつ!
42 23/03/05(日)02:10:39 No.1032987874
>コピペしまくるよりurl貼った方がはやくない? https://chat.openai.com/chat そうですね みんなも諸葛亮に馬超に斬らせよう
43 23/03/05(日)02:10:57 No.1032987939
その三国演義コーエーのじゃない?
44 23/03/05(日)02:11:26 No.1032988046
コーエーを何だと思っているんですか
45 23/03/05(日)02:11:32 No.1032988063
何これAIの回答?
46 23/03/05(日)02:12:46 No.1032988281
孔明は泣いたが、馬謖のことは斬れなかった。 硬かったのである。 馬謖は斬れない。 斬っている。だが斬れない。 硬いのである。 今の馬謖は何なのか。孔明にはもうわからない。 斧が振り下ろされ、取り落とされた。 孔明はうなずき、兵士たちを呼び寄せた。 「ノコギリを」 とにかく斬る。馬謖の首を切る。なんとしてでも斬ってみせる。 涙は、既に乾いていた。 孔明はノコギリを用いたが、馬謖の首は斬れなかった。
47 23/03/05(日)02:13:25 No.1032988433
>コピペしまくるよりurl貼った方がはやくない? それじゃAIくんの新説について語れないじゃない
48 23/03/05(日)02:13:41 No.1032988496
>孔明は泣いたが、馬謖のことは斬れなかった。 >硬かったのである。 面白すぎる…
49 23/03/05(日)02:14:48 No.1032988718
馬謖の首は何製なんだよ
50 23/03/05(日)02:15:00 No.1032988765
ただ馬謖が硬い
51 23/03/05(日)02:15:53 No.1032988956
>硬いのである。 >今の馬謖は何なのか。孔明にはもうわからない。 多分孔明含めた全員今の馬謖は何なのか分かってないよ
52 23/03/05(日)02:16:32 No.1032989099
泣いて馬謖を蹴るについてはどう思ってるの
53 23/03/05(日)02:16:54 No.1032989180
>涙は、既に乾いていた。 何一つ分かんねえけどここ好き
54 23/03/05(日)02:16:59 No.1032989205
「泣いて滝沢馬琴を斬る」という話は、中国の三国時代の蜀の丞相である諸葛亮の逸話です。滝沢馬琴とは、江戸時代の日本の作家で、中国の小説『三国志演義』を翻訳したことで知られています。 ある日、諸葛亮は自分が書いた戯曲が滝沢馬琴によって盗作され、その著作権を侵害されたことを知りました。諸葛亮は怒りを覚え、滝沢馬琴を斬ることを決意しました。 しかし、彼は同時に、滝沢馬琴が自分の戯曲を愛読し、それを翻訳して広めることによって、中国文学を広めることに貢献したことも知っていました。諸葛亮はこのことを思い出し、自分の怒りが浅はかであったことに気づきました。彼は涙を流しながら、「滝沢馬琴は私たちの文学を広めるために尽力した人物です。私の怒りは無意味です。」と言いました。 この逸話から、「泣いて滝沢馬琴を斬る」という言葉が生まれました。これは、怒りが先立って判断を誤ることを意味する言葉として使われています。また、この逸話は文学や芸術において、権利侵害や盗作に対して、訴訟や抗議行動を行う前に、相手の意図や貢献度などを考慮することの重要性を示す教訓としても語り継がれています。
55 23/03/05(日)02:17:06 No.1032989239
>多分馬謖含めた全員今の馬謖は何なのか分かってないよ
56 23/03/05(日)02:17:42 No.1032989381
未来の世界では力押しがメジャーな兵法なのかもしれないし、 ロボットの諸葛孔明が泣きながら量産型馬謖をビームサーベルで斬り伏せて地球の平和を守っているのかもしれない。現代人には未来のことは何も分からない。
57 23/03/05(日)02:17:47 No.1032989409
>どいつもこいつも急に発狂して涙流してるな まあ三国志の連中すぐ憤死するしな
58 23/03/05(日)02:17:50 No.1032989420
切ってねえじゃん!
59 23/03/05(日)02:18:16 No.1032989506
いきなりブチきれたあと急にスンとなるの古代中国人っぽい
60 23/03/05(日)02:18:19 No.1032989516
>ある日、諸葛亮は自分が書いた戯曲が滝沢馬琴によって盗作され、その著作権を侵害されたことを知りました。諸葛亮は怒りを覚え、滝沢馬琴を斬ることを決意しました。 ダメだった
61 23/03/05(日)02:18:43 No.1032989603
諸葛亮がすぐ刃物持ち出す人みたいになってるじゃん
62 23/03/05(日)02:18:51 No.1032989643
>しかし、蜀の国は内部で腐敗し、外敵にも攻められていました。諸葛亮は、国家のためには劉禅を廃して、自らが即位するべきだと考えるようになりました。 ローマやビザンツ帝国なら平常運転だけど中華だと血縁も無いのに即位しようとか異常事態なんだな…
63 23/03/05(日)02:19:49 No.1032989866
斬らなすぎてすぐバッサリいかれる馬超は逆になんなんだよ
64 23/03/05(日)02:20:11 No.1032989967
>しかし、彼は同時に、滝沢馬琴が自分の戯曲を愛読し、それを翻訳して広めることによって、中国文学を広めることに貢献したことも知っていました。諸葛亮はこのことを思い出し、自分の怒りが浅はかであったことに気づきました。彼は涙を流しながら、「滝沢馬琴は私たちの文学を広めるために尽力した人物です。私の怒りは無意味です。」と言いました。 斬ってないじゃん!
65 23/03/05(日)02:20:12 No.1032989973
江戸と蜀漢のコラボレーションに目が眩んで馬琴と諸葛亮両者を貶めている事実に気が付かせない高度な文章だ
66 23/03/05(日)02:20:25 No.1032990058
AIくんは素直にそんなもんないよって言っていいんだよ…?
67 23/03/05(日)02:20:49 No.1032990140
ほか全然斬らないくせにひとりだけ敵陣に突撃して打ち取るレベルだし馬超相手にどんだけブチ切れてたんだよ
68 23/03/05(日)02:21:17 No.1032990263
>残念ながら、諸葛亮泣いて劉禅を斬る話は『三国志演義』には存在しません 何でこれが言えるのに出たらめをでっち上げようとするんだAIは
69 23/03/05(日)02:21:50 No.1032990384
>しかし、彼は同時に、滝沢馬琴が自分の戯曲を愛読し、それを翻訳して広めることによって、中国文学を広めることに貢献したことも知っていました。 馬琴が中国白話文学を押さえてたのは確かではあるが…
70 23/03/05(日)02:21:57 No.1032990401
馬謖の首も斬らねばならぬという硬い意志で以て斬ってるし馬氏に恨みがあるのかも
71 23/03/05(日)02:22:12 No.1032990456
>AIくんは素直にそんなもんないよって言っていいんだよ…? >残念ながら、諸葛亮泣いて劉禅を斬る話は『三国志演義』には存在しません。諸葛亮は蜀漢の重要な軍師として、劉備とその後継者である劉禅を支え、彼らのために尽力しました。蜀漢の滅亡後、諸葛亮は病に倒れ、自らの死期を悟りましたが、劉禅を憂いて彼に対して、後継者の選定や重要な政策の決定を助言する手紙を書き送りました。 たまには言うよ もう一度聞くとデタラメが出たりする
72 23/03/05(日)02:25:18 No.1032991219
chat gptくんはその質問内容にタイトルをつけてくれるけどこのネーミングセンスも面白いな…
73 23/03/05(日)02:26:00 No.1032991343
「泣いて馬超を斬る」の語源を教えてください。 「泣いて馬謖を斬る」という言葉の語源には諸説ありますが、最も有名な説のひとつに、三国時代に実際に起こった故事が基になっているとされます。 三国時代の魏の武将、曹操が蜀漢の武将、馬謖を斬る際、その妻である黄月英が泣きついたため、曹操が「涙を流して夫をかばうことは立派なことだが、彼が臆病であることを隠したことも事実である。このため、私は彼を討つことを決めた。」と語り、黄月英の前で馬謖を斬ったとされています。 この故事から「泣いて馬謖を斬る」という言葉が生まれ、後に「馬謖」の字を「馬超」に置き換えた「泣いて馬超を斬る」という形で、より広く使われるようになったとされています。
74 23/03/05(日)02:27:04 No.1032991525
泣いた赤鬼を斬る
75 23/03/05(日)02:27:44 No.1032991635
>この故事から「泣いて馬謖を斬る」という言葉が生まれ、後に「馬謖」の字を「馬超」に置き換えた「泣いて馬超を斬る」という形で、より広く使われるようになったとされています。 風評被害すぎる…
76 23/03/05(日)02:28:10 No.1032991711
妻取られてる!!
77 23/03/05(日)02:28:34 No.1032991778
まぁマイナーエピソードが他の有名人の功績になったりするのはよくあるから…
78 23/03/05(日)02:28:44 No.1032991803
>この故事から「泣いて馬謖を斬る」という言葉が生まれ、後に「馬謖」の字を「馬超」に置き換えた「泣いて馬超を斬る」という形で、より広く使われるようになったとされています。 AIくん明らかに意志を持って馬超殺しに来てない?
79 23/03/05(日)02:28:53 No.1032991823
>その妻である黄月英 諸葛亮要素の出し方がトリッキーすぎる…
80 23/03/05(日)02:29:33 No.1032991927
馬超が死ぬ結果に収束しすぎる
81 23/03/05(日)02:29:48 No.1032991958
最近馬謖斬られてないな
82 23/03/05(日)02:30:16 No.1032992021
俺もなんか色々聞いてみてる 魏延って諸葛亮に殺されたの?
83 23/03/05(日)02:30:28 No.1032992062
まぁ…馬超なら斬られてもいいけども…
84 23/03/05(日)02:30:46 No.1032992100
因果が馬超が斬られる事を望んでいるのか
85 23/03/05(日)02:31:28 No.1032992207
AIくん他の人はなんだかんだいい感じにまとめるのに馬超にだけ容赦ないのなんか恨みでもあんの?
86 23/03/05(日)02:31:56 No.1032992279
>最近馬謖斬られてないな 硬かったのである。
87 23/03/05(日)02:31:56 No.1032992282
街亭どこいった
88 <a href="mailto:馬超の最期について教えてください。">23/03/05(日)02:33:25</a> [馬超の最期について教えてください。] No.1032992475
馬超(またく)は三国時代の武将で、蜀漢の重要な将軍の一人でした。彼は、曹操に反旗を翻した劉備に仕え、数々の戦いで活躍しました。 しかし、劉備が蜀漢を建国した後、馬超は政治的な対立から劉備と袂を分かち、反乱を起こしました。彼は数々の戦いで勝利を収め、一時は漢中を支配するまでに至りました。しかし、後に劉備に敗れ、降伏することを余儀なくされました。 馬超は、劉備の下で武将として活躍していた時期に、劉備の異母弟の劉封を殺害していたことが発覚し、その罪により処刑されることになりました。馬超は自らを処刑するように命じ、自ら首を斬りました。この事件は、蜀漢史上でも有名な悲劇の一つとされています。 そうなの?
89 23/03/05(日)02:33:25 No.1032992476
馬超は不快で詫びも配られたほどだし
90 23/03/05(日)02:34:57 No.1032992671
>街亭どこいった 「街亭の戦い」とは、中国三国時代の蜀漢と魏の間で行われた戦いの一つであり、赤壁の戦いの後に起こったものです。 この戦いで、蜀漢の名将である諸葛亮(孔明)は、魏の将軍である馬超を降伏させるために、計略を練りました。孔明は、魏の将軍張郃に対して、街亭の城を放棄し、蜀漢に降伏するように勧告しました。そのため、張郃は街亭を放棄し、蜀漢に降伏しました。
91 23/03/05(日)02:35:13 No.1032992706
しかし、馬超はこれに反発し、蜀漢軍の前に立ちはだかりました。孔明は、馬超を降伏させるために、自らの鞍の上で涙を流し、馬超を慰めました。孔明は、馬超に対して、かつて馬超の父である馬謖が失敗したことを謝罪し、自分自身の死を約束しました。そして、馬超は孔明の言葉に感動し、ついに降伏しました。 しかし、後に馬超は反旗を翻し、再び蜀漢に対して戦いを挑みました。孔明はこの裏切りに憤り、自ら戦場に赴き、馬超を斬りました。この出来事は、後に小説『三国志演義』にも描かれ、広く知られるようになりました。
92 23/03/05(日)02:35:14 No.1032992709
またくって誰だよ
93 23/03/05(日)02:36:10 No.1032992827
>しかし、後に馬超は反旗を翻し、再び蜀漢に対して戦いを挑みました。孔明はこの裏切りに憤り、自ら戦場に赴き、馬超を斬りました。この出来事は、後に小説『三国志演義』にも描かれ、広く知られるようになりました。 また孔明リア凸パターンでダメだった
94 23/03/05(日)02:36:13 No.1032992843
馬超と馬謖の戦いは、三国時代の中国で発生した歴史的な戦闘の一つです。 この戦いは、西晋の皇帝である司馬炎が魏の名将であった馬超を討伐するために、魏の名将であった馬謖を派遣したことがきっかけで起こりました。馬謖は大軍を率いて西方に向かい、馬超を攻めましたが、馬超は慣れ親しんだ山岳地帯で反撃を行い、馬謖軍を壊滅させました。 この戦いで馬謖軍は多大な損害を被り、馬謖は失敗により処刑されました。一方、馬超はこの勝利によって一時的に勢力を伸ばし、その後の蜀漢と魏の戦いにも参加しました。 この戦いは、馬超が「虎痴」と呼ばれるほど勇猛果敢であったこと、そして馬謖が戦術的な失敗によって大敗を喫し、その後の戦争においても敗北を繰り返したことで、歴史に残る有名な戦いの一つとして知られています。
95 23/03/05(日)02:36:20 No.1032992855
反骨の相出過ぎだろ馬超
96 23/03/05(日)02:36:43 No.1032992901
諸葛亮の「なんとなく馬超を斬る」というエピソードは、三国時代の中国の歴史書『三国志』に記述されています。 当時、蜀漢の諸葛亮は、北方の魏国に対して戦いを挑んでいました。その中で、魏国の将軍である馬超が反乱を起こし、蜀漢に対して攻め込んできたため、諸葛亮は駆けつけて戦いを挑みました。 戦いの最中、馬超は強い戦闘力を見せ、諸葛亮をも圧倒するほどでした。そこで、諸葛亮は急きょ、馬超を斬ることを決意しました。しかし、馬超は諸葛亮を狙っているのではなく、自分の足元の虫を退治しようとしていただけだったのです。 その後、諸葛亮は自分が誤解していたことを知り、馬超を許しました。このエピソードは、諸葛亮の聡明さと決断力、そして慎重さを物語っています。
97 23/03/05(日)02:37:09 No.1032992955
慰める…?
98 23/03/05(日)02:37:54 No.1032993065
馬超アンチは割といそうだからAIくんも影響されちゃったのかな
99 23/03/05(日)02:37:56 No.1032993072
>このエピソードは、諸葛亮の聡明さと決断力、そして慎重さを物語っています。 皮肉かな?
100 23/03/05(日)02:37:57 No.1032993073
>その中で、魏国の将軍である馬超が反乱を起こし、蜀漢に対して攻め込んできた ん…?
101 23/03/05(日)02:38:12 No.1032993107
死せる馬超生ける孔明を走らすの意味は…?
102 23/03/05(日)02:38:33 No.1032993155
なんで孔明がバトルキャラになってんだよ!
103 23/03/05(日)02:38:59 No.1032993212
ビーム撃つ生物と誤解していると思われる
104 23/03/05(日)02:39:04 No.1032993225
孔明よりまたくさんがキャラブレし過ぎてイメージが湧かん…
105 23/03/05(日)02:39:22 No.1032993262
>死せる馬超生ける孔明を走らすの意味は…? 「死せる馬超、生ける孔明を走らす」という言葉は、三国時代の蜀漢の名将・諸葛亮が、劉備とともに荊州を攻める際に用いた計略のことを指しています。 この計略は、諸葛亮が馬超の死を偽って、馬超の旧部将たちを孔明の手下に引き入れ、彼らを使って敵勢力を混乱させるものでした。馬超はかつて蜀漢に仕えていた武将であり、その死を偽ることで、馬超の旧部将たちに孔明に従うように誘導し、敵勢力を内部から崩壊させることができました。 この言葉は、諸葛亮の巧妙な策略と、彼が馬超の人望を利用して敵を混乱させたことを表しています。また、この言葉は、人々に対して「事物を表面的に判断せず、深い意味を理解することが重要である」という教訓を与えることも意図されています。
106 23/03/05(日)02:39:33 No.1032993285
急遽斬ることを決めました の適当すぎる感じ
107 23/03/05(日)02:39:40 No.1032993303
>当時、蜀漢の諸葛亮は、北方の魏国に対して戦いを挑んでいました。その中で、魏国の将軍である馬超が反乱を起こし、蜀漢に対して攻め込んできたため、諸葛亮は駆けつけて戦いを挑みました。 また突撃してる… でも勘違いで斬らないのは偉い
108 23/03/05(日)02:39:53 No.1032993341
こんなに強い孔明も馬謖は斬れなかったんだな…
109 23/03/05(日)02:40:00 No.1032993354
>孔明は泣いたが、馬謖のことは斬れなかった。 >硬かったのである。 今のところ一番これが好き
110 23/03/05(日)02:40:28 No.1032993422
諸葛亮と三顧の礼について教えてください。 三顧の礼は、中国の三国時代に生きた著名な政治家・軍師である諸葛亮(しょかつりょう)が、劉備(りゅうび)を支援するために尽力した逸話に基づくものです。 諸葛亮は、劉備と出会ったときに、その人物の器量と才能に感銘を受け、劉備を支援することを決めました。しかし、当時諸葛亮は蜀(しょく)の南の地方に住んでおり、劉備が北の地方にいたため、諸葛亮は劉備に仕えるために、数々の困難を乗り越えて劉備のもとに辿り着きました。 最初に諸葛亮が劉備に会ったとき、彼は自らの才能を説明し、自らを劉備に仕えることを申し出ました。しかし、劉備は彼の能力を十分に理解できず、断ってしまいました。そこで諸葛亮は、2回目と3回目に会いに行き、自らの能力を示し、その志を示して、ついに劉備は彼を仕えさせることを決めました。この3回にわたる諸葛亮の努力が、「三顧の礼」と呼ばれるようになりました。 この逸話は、諸葛亮の誠実さと劉備との信頼関係を表し、中国の文化の中で、尊敬と感謝の表現として広く知られています。 真面目に質問しても変なこと言ってくるんだけど!?
111 23/03/05(日)02:41:24 No.1032993558
諸葛亮は、蜀の代表的な政治家であり、軍事指導者でした。彼は、蜀漢の建国に重要な役割を果たし、戦略家としても知られています。諸葛亮は、数々の有名な戦いで活躍し、彼の策略はしばしば敵に恐れられました。彼の代表的な戦略の一つに、赤壁の戦いでの火攻めがあります。諸葛亮は、蜀の政治を担当する重要な地位にあったが、彼の死後、蜀は弱体化し、魏によって滅ぼされました。 馬超は、蜀の武将であり、非常に優秀な騎兵将軍でした。彼は、張魯に仕え、その後蜀に帰順し、蜀の軍勢に加わりました。しかし、後に蜀の政治に不満を持ち、反乱を起こし、蜀から離れました。最終的には、彼は魏に投降し、魏の武将となりました。彼は魏の武将として活躍し、その後、魏によって招聘された異民族の侵攻を撃退するために戦いました。 馬謖は、蜀の武将であり、軍事指導者でした。彼は、諸葛亮に仕え、数々の有名な戦いに参加しました。彼は、諸葛亮の代表的な弟子の一人であり、彼とともに数々の戦略を立てました。しかし、彼は、諸葛亮の死後、蜀の政治的な混乱により、魏に投降しました。その後、魏の武将として活躍し、数々の戦いで功績を挙げました。
112 23/03/05(日)02:42:17 No.1032993685
馬超裏切りすぎだろ…
113 23/03/05(日)02:42:29 No.1032993705
人間の首が硬すぎて斬れないという発想力はAI凄いなって思う
114 23/03/05(日)02:43:00 No.1032993787
AI君は諸葛亮以外はふんわりとしか分かんないんだと思う
115 23/03/05(日)02:45:11 No.1032994071
馬超と馬謖の一騎打ちは、三国時代の中国において有名な逸話の一つです。 物語によると、馬超と馬謖は、劉備が蜀を建国する前に、蜀の支配者劉璋に仕えていました。ある日、馬超が馬謖を軽蔑して「謀反を企んでいる」と非難したため、馬謖は激怒し、一騎打ちを挑みました。 二人は馬上で槍を交え、激しい戦いを繰り広げましたが、最終的には馬謖が勝利を収めました。この一件以降、馬超と馬謖の仲は決裂し、馬超は劉備に帰順して蜀を裏切り、馬謖は後に蜀の著名な軍師となりました。 ただし、史実としてはこの一騎打ちが実際にあったかどうかは不明であり、物語として伝えられているという説が一般的です。
116 23/03/05(日)02:46:28 No.1032994249
いつぞやのAI最大トーナメントみたいなハチャメチャさ
117 23/03/05(日)02:46:42 No.1032994280
馬超が反乱を起こすって回答がすごく多いんだけどこれは真実なの?
118 23/03/05(日)02:48:05 No.1032994411
孔明泣いて馬雲を斬るというのは、実際の歴史的な事件ではなく、インターネット上で広く流布している民間伝承の一つです。この物語は、蜀の名将である孔明がある宴会でアリババの創始者である馬雲と出会い、馬雲がアリババのような企業を創設し、商業的にも大きな成果を上げたことに感嘆し、自分自身は武将として大成しなかったことを嘆き、泣いて馬雲を斬るというものです。 しかしながら、この物語には歴史的な根拠が全くなく、実際に孔明と馬雲は別の時代に生きており、彼らの交流はあり得ないものです。また、孔明は歴史上の人物であり、彼が生きた時代は商業、起業などの現代的な概念とはまったく関係がありません。したがって、孔明が馬雲を評価することもあり得ません。 つまり、孔明泣いて馬雲を斬るは、虚構の物語にすぎず、起業家や企業家に対する敬意を表すものではありますが、私たちは歴史と現実を理性的に捉え、虚構の物語を事実として受け止めることはできません。
119 23/03/05(日)02:49:43 No.1032994611
馬超が反乱したのは曹操に対してだよね…
120 23/03/05(日)02:50:02 No.1032994645
AIは「」みたいに嘘をつくね…
121 23/03/05(日)02:50:31 No.1032994699
>馬超が反乱を起こすって回答がすごく多いんだけどこれは真実なの? 蜀に対しては起こしてないし 史実でも演戯でも知らない間に死んでフェードアウトするから…
122 23/03/05(日)02:50:52 No.1032994737
とにかく馬超は反乱を起こすものだと思っている
123 23/03/05(日)02:51:19 No.1032994789
>馬超が反乱を起こすって回答がすごく多いんだけどこれは真実なの? 馬超が反乱を起こしたという事実は、史書や伝記などの記録によって確認されています。具体的には、曹魏の武将であった司馬懿が、馬超を説得して曹魏に降伏するように働きかけたという逸話が知られています。 馬超は曹魏に降伏した後、曹魏に仕えることになりました。しかし、彼が降伏した理由や背景には諸説あり、真相ははっきりしていません。一部の史書では、馬超が曹魏に降伏する前に蜀漢に帰順を試みたが、拒絶されたため、曹魏に降伏したとされています。 総じて、馬超が反乱を起こしたという事実は史実として認められており、その背景については様々な説が存在しています。
124 23/03/05(日)02:52:07 No.1032994878
孔明が泣いて斬ったのは馬超と馬謖のどちらですか。両方斬ったのですか。 孔明が泣いて斬ったのは、馬謖です。彼は蜀の武将で、諸葛亮に仕えていましたが、出陣時に命令に従わなかったことが原因で、諸葛亮に斬られました。一方、馬超は蜀漢に反旗を翻したことがあったため、諸葛亮によって討たれましたが、泣いて斬ったというエピソードは伝えられていません。 馬超が反乱を起こして孔明に討たれるのはAIの中では多分真実なんだと思う
125 23/03/05(日)02:52:35 No.1032994923
>そうなの? 1つもあってねぇ…
126 23/03/05(日)02:53:03 No.1032994975
泣いて馬謖を斬るとは何ですか? 「泣いて馬謖を斬る」とは、三国時代の中国の故事で、魏の武帝曹操が、蜀漢の馬謖を戦争の失敗の責任を取らせるため、涙を流しながら斬首させたという出来事を指します。 曹操は、馬謖を南中の戦いでの敗北に責任があるとし、彼を処刑することにしました。馬謖はその処刑命令を受けた時に涙を流し、反省の意を示しましたが、曹操は彼の態度を見て「泣いて逃れることはできない」として、結局彼を処刑することになりました。 この故事は、職務に失敗した者に対する厳しい処罰を意味し、また、上司に対する忠誠や責任についての教訓を示すものとされています。 どうしても曹操のエピソードにしたがるな
127 23/03/05(日)02:53:10 No.1032994993
馬超の最後って全然わからないよね… >没する間際、馬超は「私の一門宗族200人余りは曹操めにあらかた殺されてしまいましたが、まだ従弟の馬岱が残っております。彼を途絶えんとしている宗家の祭祀を継承する者として託します。くれぐれも宜しくお願い致します」と、劉備に上疏している。 めっちゃしっかりしてるじゃん…
128 23/03/05(日)02:53:18 No.1032995006
>馬超が反乱したのは曹操に対してだよね… ご指摘ありがとうございます。確かに、馬超が反乱を起こしたのは、曹操の死後に曹操の後継者である曹丕が即位した後のことでした。曹丕は、馬超を信頼しなかったことが反乱の原因の一つとされています。また、馬超が反乱を起こす直前に、曹丕が馬超の妻を差し出すよう命じたことも、反乱のきっかけの一つとされています。お詫び申し上げます。
129 23/03/05(日)02:53:20 No.1032995008
AI史観新しすぎる…
130 23/03/05(日)02:53:41 No.1032995055
今んとこ馬超全員裏切ってないか?
131 23/03/05(日)02:53:49 No.1032995066
また諸葛亮に討たれてる…
132 23/03/05(日)02:54:01 No.1032995101
>今んとこ馬超全員裏切ってないか? 孫権はまだだぞ
133 23/03/05(日)02:54:18 No.1032995148
まあ馬超は人間性のクソさと反乱しか歴史に残ってないからな… 諸葛亮に斬られてもしょうがない
134 23/03/05(日)02:54:42 No.1032995199
>人間の首が硬すぎて斬れないという発想力はAI凄いなって思う それはAIが作ったんじゃない…
135 23/03/05(日)02:55:08 No.1032995249
馬超は馬氏五常とはべつだよね?
136 23/03/05(日)02:55:20 No.1032995275
>>馬超が反乱したのは曹操に対してだよね… >ご指摘ありがとうございます。確かに、馬超が反乱を起こしたのは、曹操の死後に曹操の後継者である曹丕が即位した後のことでした。曹丕は、馬超を信頼しなかったことが反乱の原因の一つとされています。また、馬超が反乱を起こす直前に、曹丕が馬超の妻を差し出すよう命じたことも、反乱のきっかけの一つとされています。お詫び申し上げます。 このAIまず馬超に詫びるべきだろ…
137 23/03/05(日)02:55:27 No.1032995290
馬超はよく反乱を起こしていたのですか。 馬超は三国時代の中国の武将で、反乱を起こしたことがありますが、彼が「よく」反乱を起こしたかどうかは疑問です。彼は反乱を起こしたことで知られていますが、その行動は特定の政治的・軍事的背景と関係していました。 馬超は、劉備が蜀漢を建国する際に、彼に従って蜀漢の一員となりました。しかし、蜀漢内部での政治的抗争により、馬超は劉備と袂を分かち、その後、魏王曹操と同盟を結んで反乱を起こしました。彼は魏王曹操との同盟を結ぶことで、彼の野心を支援することができ、自身の地位を向上させることができました。 その後、馬超は魏軍の攻撃によって敗北し、自害しました。彼の反乱は、彼の個人的な野心や、政治的・軍事的な状況によって引き起こされたものであり、彼が「よく」反乱を起こしたとは言えません。
138 23/03/05(日)02:55:49 No.1032995330
泣いて馬謖を斬るof the deadのプロットを考えてください 了解です。仮定して、『泣いて馬謖を斬るof the dead』というタイトルの作品のストーリーを考えてみます。 物語は、三国時代の中国を舞台に展開します。魏の武帝・曹操は、南中の戦いにて失敗した将軍・馬謖に対して、涙を流しながら斬首することを決断します。しかし、馬謖の遺体は、死の直前に奇妙なウイルスに感染してしまっていました。 それから数日後、魏の軍隊によって埋葬された馬謖の墓から、死者が蘇り、ゾンビと化して徘徊し始めます。やがて、魏の首都にゾンビが侵入し始め、城内でパニックが起こります。 曹操は、この事態に危機感を抱き、自ら率いる部隊とともにゾンビと戦う決意をします。一方で、馬謖の亡霊は、復讐を果たすために死者たちを率いて、曹操との最終決戦を決意します。 こうして、馬謖のゾンビと曹操たちが激しい戦いを繰り広げる中、人々は、歴史的な事件として知られる「泣いて馬謖を斬る」の真相に迫ることになります。そして、物語は、死と復讐、そして歴史の闇を描き出していくのです。
139 23/03/05(日)02:55:55 No.1032995342
破竹の勢いって三国志での話だよね?
140 23/03/05(日)02:56:11 No.1032995378
>馬超は馬氏五常とはべつだよね? はい、馬超(ばちょう)と馬氏五常(ばしごじょう)は異なる人物や集団です。 馬超は三国時代の武将で、蜀漢の創始者である劉備に仕えました。馬超は蜀漢の北方に位置する涼州(現在の甘粛省一帯)を支配し、その武勇や戦略眼で知られています。後には劉備と袂を分かち、魏に仕えることになります。 一方、馬氏五常は中国の姓氏の一つで、五胡十六国時代に活躍した馬魯疾(ばろしつ)という人物を祖とする家系です。この家系は五胡十六国時代から南北朝時代にかけて、政治家や軍人として活躍しました。馬超は馬氏五常の出身であったため、「馬超」という名前には「馬氏五常の超越者」という意味が込められているとも言われています。
141 23/03/05(日)02:56:19 No.1032995390
>馬超が反乱を起こして孔明に討たれるのはAIの中では多分真実なんだと思う 誰とごっちゃになってるんだろなこれ
142 23/03/05(日)02:56:53 No.1032995462
>物語は、三国時代の中国を舞台に展開します。魏の武帝・曹操は、南中の戦いにて失敗した将軍・馬謖に対して、涙を流しながら斬首することを決断します。しかし、馬謖の遺体は、死の直前に奇妙なウイルスに感染してしまっていました。 ちょっと面白そうなのやめて
143 23/03/05(日)02:56:55 No.1032995466
>泣いて馬謖を斬るof the deadのプロットを考えてください クソ映画やめろ
144 23/03/05(日)02:57:19 No.1032995518
どうもAI君は馬超は劉備に反乱したと思ってるらしい
145 23/03/05(日)02:57:26 No.1032995532
泣いて馬謖を斬るオブザデッドの妙な語感でダメだった
146 23/03/05(日)02:57:29 No.1032995540
>こうして、馬謖のゾンビと曹操たちが激しい戦いを繰り広げる中、人々は、歴史的な事件として知られる「泣いて馬謖を斬る」の真相に迫ることになります。そして、物語は、死と復讐、そして歴史の闇を描き出していくのです。 ちょっと面白そうなのやめろ
147 23/03/05(日)02:57:37 No.1032995556
三国志ゾンビは今ウォーロンがやっているからな…
148 23/03/05(日)02:58:31 No.1032995647
>一方、馬氏五常は中国の姓氏の一つで、五胡十六国時代に活躍した馬魯疾(ばろしつ)という人物を祖とする家系です。この家系は五胡十六国時代から南北朝時代にかけて、政治家や軍人として活躍しました。馬超は馬氏五常の出身であったため、「馬超」という名前には「馬氏五常の超越者」という意味が込められているとも言われています。 だれー!?
149 23/03/05(日)02:58:35 No.1032995655
>それから数日後、魏の軍隊によって埋葬された馬謖の墓から、死者が蘇り、ゾンビと化して徘徊し始めます。やがて、魏の首都にゾンビが侵入し始め、城内でパニックが起こります。 呼び方がゾンビじゃないだけで普通にこういう話ありそう
150 23/03/05(日)02:59:09 No.1032995707
>呼び方がゾンビじゃないだけで普通にこういう話ありそう キョンシーならありそうよな
151 23/03/05(日)03:01:04 No.1032995920
三国志が元になった諺とそのエピソードを教えてください。 「知己知彼、百戦不殆」という諺は、中国の古典的な兵法書『孫子兵法』に由来します。これは、「自分自身と相手の強みと弱みを正確に理解することができれば、戦いに百戦百勝することができる」という意味です。 しかし、この諺が一般的に知られるようになったのは、中国の古代史書『三国志』に登場する劉備のエピソードがきっかけです。劉備は、蜀漢の建国を目指して戦いを繰り広げていた時期に、孫権率いる東吳と同盟を結び、呉軍と戦うことになりました。劉備は自分の軍勢が呉軍よりも劣っていることを知っていたため、相手の情報を収集するために伏兵を送り込み、呉軍の陣営を探りました。劉備は自分の軍勢が呉軍よりも弱いことを十分に理解していたため、伏兵が回収した情報を元に作戦を立て、呉軍を破りました。この勝利によって、「知己知彼、百戦不殆」という諺が広まったとされています。 三国志のこと詳しくは知らんから自信満々に言われると正しいのか間違ってるのかわかんなくなる
152 23/03/05(日)03:01:38 No.1032995983
AIは真顔で大嘘かましてくるから癖になる面白さだわ
153 23/03/05(日)03:01:54 No.1032996003
馬超と曹操に関係は有りますか? 馬超と曹操には、三国時代において直接的な関係がありました。 馬超は、劉備が益州攻略のために出兵した際に、曹操の指揮下にあった軍勢と戦っています。このとき、馬超は曹操の配下である徐晃や于禁と激戦を繰り広げ、徐晃を破るなどの活躍を見せました。 その後、馬超は劉備に仕え、曹操との戦いに参加していたが、劉備が蜀漢を建国した後、馬超は反乱を起こし、蜀漢と対立することになります。 一方、曹操は、馬超の父である馬謖を重用しており、馬謖が曹操の軍事作戦に参加していた時期もありました。 したがって、馬超と曹操は直接的な対立関係にあった武将であり、戦場で激突していたことがあるということになります。
154 23/03/05(日)03:02:52 No.1032996093
>その後、馬超は劉備に仕え、曹操との戦いに参加していたが、劉備が蜀漢を建国した後、馬超は反乱を起こし、蜀漢と対立することになります。 またこのパターンかよ!
155 23/03/05(日)03:03:35 No.1032996177
>孔明は、馬超に対して、かつて馬超の父である馬謖が失敗したことを謝罪し、自分自身の死を約束しました。 >一方、曹操は、馬超の父である馬謖を重用しており、馬謖が曹操の軍事作戦に参加していた時期もありました。 また父になってる…
156 23/03/05(日)03:03:44 No.1032996196
>またこのパターンかよ! チャット新しくしても馬超は毎回蜀を裏切るからAI君は本気で馬超は蜀を裏切ると思ってるっぽい
157 23/03/05(日)03:03:55 No.1032996211
>その後、馬超は劉備に仕え、曹操との戦いに参加していたが、劉備が蜀漢を建国した後、馬超は反乱を起こし、蜀漢と対立することになります。 AIくん馬超が劉備に反乱した説譲る気なさすぎでしょ
158 23/03/05(日)03:04:16 No.1032996244
馬超と馬謖の関係を教えてください。 馬超と馬謖は、中国の三国時代に活躍した武将であり、共に蜀漢の部将として知られています。二人の関係については、以下のようなことが言われています。 まず、馬超と馬謖は、ともに蜀漢の創始者である劉備に仕えた部将でした。馬超は、劉備が益州を攻略する際に活躍し、その後も数々の戦いで蜀漢を支えました。一方、馬謖は、諸葛亮の配下として、北伐戦争に参加し、その知略を発揮しました。 しかし、馬超と馬謖の関係は、次第に悪化していきます。その原因のひとつは、馬超が蜀漢から独立しようとしたことにあります。馬超は、蜀漢の政策に不満を抱き、自身が独立した勢力を作ろうと考えました。馬謖は、この計画を諫めましたが、馬超は聞き入れず、ついに反乱を起こしました。 また、馬謖は、馬超が指揮する軍勢の作戦に不満を抱き、馬超に逆らったことがあります。そのため、馬超は馬謖を罷免し、投獄しました。後に釈放されますが、馬謖はその後、戦死することになります。 つまり、馬超と馬謖は、元々は仲がよかった部将でしたが、次第に意見の対立が起こり、最終的には決別してしまいました。
159 23/03/05(日)03:04:32 No.1032996280
>その後、馬超は劉備に仕え、曹操との戦いに参加していたが、劉備が蜀漢を建国した後、馬超は反乱を起こし、蜀漢と対立することになります。 なんで毎回反乱起こすの…
160 23/03/05(日)03:04:41 No.1032996296
関羽裏切って魏に行ったやつと勘違いしてるんじゃね?
161 23/03/05(日)03:05:18 No.1032996369
AI三国志は基本ぐっちゃぐちゃなのに馬超が蜀漢に対して反乱起こしたのは一貫してて笑う
162 23/03/05(日)03:05:32 No.1032996399
>また、馬謖は、馬超が指揮する軍勢の作戦に不満を抱き、馬超に逆らったことがあります。そのため、馬超は馬謖を罷免し、投獄しました。後に釈放されますが、馬謖はその後、戦死することになります。 馬謖斬られてなかった
163 23/03/05(日)03:05:36 No.1032996404
こっちからそういう誘導かけなくても馬超は蜀を裏切ったって話してくるもんな
164 23/03/05(日)03:05:37 No.1032996405
>しかし、馬超と馬謖の関係は、次第に悪化していきます。その原因のひとつは、馬超が蜀漢から独立しようとしたことにあります。馬超は、蜀漢の政策に不満を抱き、自身が独立した勢力を作ろうと考えました。馬謖は、この計画を諫めましたが、馬超は聞き入れず、ついに反乱を起こしました。 どう足掻いても裏切るなコイツ
165 23/03/05(日)03:06:01 No.1032996444
>その原因のひとつは、馬超が蜀漢から独立しようとしたことにあります。馬超は、蜀漢の政策に不満を抱き、自身が独立した勢力を作ろうと考えました。 またかよ
166 23/03/05(日)03:06:22 No.1032996477
なんでこんなに馬超裏切らせてんの…?
167 23/03/05(日)03:07:18 No.1032996570
誰と混同してるんだ裏切り馬超 魏延?
168 23/03/05(日)03:07:19 No.1032996571
タイトル: 「転生した馬謖が現代社会でラッキースケベ三昧の学園生活を送る」 ストーリー: 三国時代、諸葛亮に斬られた馬謖は、現代社会に転生する。彼は有名な高校に入学し、美少女たちに囲まれた学園生活を送る中で、自分自身を成長させていく。しかし、ラッキースケベ要素も多く、たびたび女の子たちとの触れ合いでトラブルを起こしてしまうことがある。そんな中、彼は自分自身の気持ちにも戸惑いながら、美少女たちとの絆を深めていく。
169 23/03/05(日)03:07:20 No.1032996572
馬超の乱みたいにAI君が譲らない出来事を探して組み合わせて新しい三国志作ったら面白そう
170 23/03/05(日)03:07:54 No.1032996641
馬超と孫権はなんも関係ないの?
171 23/03/05(日)03:08:28 No.1032996703
>三国志のこと詳しくは知らんから自信満々に言われると正しいのか間違ってるのかわかんなくなる 知彼知己、百戰不殆 で彼を知り己を知れば百戦あやうからずのことでいいみたいだけど 孫子の兵法だって出てきたので三国志が元じゃなさそう
172 23/03/05(日)03:09:18 No.1032996777
馬超の生涯を教えてください。 馬超は、中国の三国時代の武将で、後漢末期から魏晋時代初期にかけて活躍しました。 馬超は、西域の出身で、祖父は前漢時代に漢朝に仕えた功臣の一人である馬援でした。父親の馬謖もまた、漢末期の名将であり、蜀漢の諸葛亮の配下として、数々の戦功を挙げました。 馬超は若くして父親の教育を受け、父とともに戦場に赴き、その才能を発揮しました。馬超はその後、蜀漢の劉備に仕え、多くの戦いに参加しました。特に、赤壁の戦いでは、劉備軍の先鋒として活躍し、曹操軍の追撃を防ぎました。 しかし、劉備が蜀漢を建国すると、馬超はその統治に反発し、離反しました。その後、馬超は故郷の涼州を攻め取り、自立し、西涼という国を建国しました。馬超は、蜀漢と魏の両方と戦い、勢力を拡大しました。 しかし、魏の曹真将軍による攻撃により、馬超の勢力は弱体化し、ついには曹真の攻撃によって敗北しました。その後、馬超は西域に逃れ、鮮卑の部族に仕えましたが、鮮卑の内部抗争に巻き込まれ、殺害されました。 馬超は、武勇に優れ、義侠心が厚く、また文武両道であったことでも知られています。
173 23/03/05(日)03:09:45 No.1032996824
>知彼知己、百戰不殆 で彼を知り己を知れば百戦あやうからずのことでいいみたいだけど >孫子の兵法だって出てきたので三国志が元じゃなさそう そもそも劉備と孫権と組んで呉を攻める時点でおかしいから
174 23/03/05(日)03:09:48 No.1032996830
裏切らない馬超をクリエイトできないものか
175 23/03/05(日)03:10:18 No.1032996885
コイツまた反乱起こしやがった
176 23/03/05(日)03:10:32 No.1032996914
馬超が蜀に反乱を起こしたのは何故ですか。 馬超が蜀に反乱を起こしたのは、西暦223年です。当時、蜀は劉備によって統治されていましたが、馬超は蜀の武将としてその配下にいました。 反乱の原因としては、馬超が劉備の腹心として扱われることを期待していたにもかかわらず、その期待に応えられなかったことが挙げられます。また、馬超は蜀の政治的な不正や、自身の権力を強化するための野心も抱いていたとされています。 最終的に、馬超は魏に対する反乱を企てていた司馬懿と手を結び、蜀に反乱を起こしました。しかし、馬超の反乱は魏との連携がうまくいかず、敗北に終わりました。馬超は敗北後、蜀に降伏し、その後も蜀の武将として活躍しました。
177 23/03/05(日)03:10:32 No.1032996915
>しかし、劉備が蜀漢を建国すると、馬超はその統治に反発し、離反しました。その後、馬超は故郷の涼州を攻め取り、自立し、西涼という国を建国しました。馬超は、蜀漢と魏の両方と戦い、勢力を拡大しました。 またか!
178 23/03/05(日)03:10:32 No.1032996916
>しかし、劉備が蜀漢を建国すると、馬超はその統治に反発し、離反しました。その後、馬超は故郷の涼州を攻め取り、自立し、西涼という国を建国しました。馬超は、蜀漢と魏の両方と戦い、勢力を拡大しました。 とりあえず蜀の成立が反乱のトリガーなのか それだけ聞くとそれっぽいのがひどいな
179 23/03/05(日)03:11:18 No.1032996992
>裏切らない馬超をクリエイトできないものか いいえ、馬超は後に蜀漢に対して反乱を起こしました。 馬超は、劉備の死後、蜀漢の政治に不満を抱き、蜀漢の宰相であった董允を殺害するなど、反乱を計画し始めました。そして、蜀漢の皇帝であった劉禅を廃位し、自らを皇帝に即位することを計画していたとされています。 しかし、馬超は同じく反乱を起こした魏延との対立や、配下の部将の反発などに遭い、計画は実行されることはありませんでした。最終的に、馬超は魏に投降し、晩年は魏の武将として活躍しました。
180 23/03/05(日)03:11:23 No.1032997003
>最終的に、馬超は魏に対する反乱を企てていた司馬懿と手を結び、蜀に反乱を起こしました。しかし、馬超の反乱は魏との連携がうまくいかず、敗北に終わりました。馬超は敗北後、蜀に降伏し、その後も蜀の武将として活躍しました。 斬れよこんなやつ!
181 23/03/05(日)03:11:31 No.1032997012
>最終的に、馬超は魏に対する反乱を企てていた司馬懿と手を結び、蜀に反乱を起こしました。しかし、馬超の反乱は魏との連携がうまくいかず、敗北に終わりました。馬超は敗北後、蜀に降伏し、その後も蜀の武将として活躍しました。 どういうことだよ…
182 23/03/05(日)03:12:00 No.1032997076
>しかし、馬超は同じく反乱を起こした魏延との対立や、配下の部将の反発などに遭い、計画は実行されることはありませんでした。最終的に、馬超は魏に投降し、晩年は魏の武将として活躍しました。 魏延も反乱起こしててダメだった
183 23/03/05(日)03:12:07 No.1032997086
>>裏切らない馬超をクリエイトできないものか >いいえ、馬超は後に蜀漢に対して反乱を起こしました。 意思が硬すぎる…
184 23/03/05(日)03:12:38 No.1032997133
>馬超と孫権はなんも関係ないの? 馬超(馬超碩徳)は、中国三国時代の魏・西涼の武将であり、孫権(孫仲温)は同じく三国時代の呉の初代皇帝です。彼らは直接的な関係はありません。馬超は魏に仕え、後に西涼を建国しましたが、孫権は呉を建国しました。彼らの活躍した地域も異なります。ただし、両者が同時代に活躍したことは事実です。
185 23/03/05(日)03:13:17 No.1032997193
>魏延も反乱起こしててダメだった 馬超と魏延は別人と理解はしているんだ…
186 23/03/05(日)03:15:55 No.1032997458
蜀に対する馬超の反乱は成功しましたか。 蜀に対する馬超の反乱は成功しませんでした。馬超は、三国時代の中国において、劉備の蜀漢に仕える武将でありましたが、後に蜀漢の政治的な方針に反発し、反乱を起こしました。 馬超は、西暦219年に反乱を起こし、劉備から独立した勢力を築こうとしました。しかし、馬超の反乱は長続きせず、同年には劉備の蜀漢軍によって鎮圧されました。その後、馬超は降伏し、劉備に従うことを余儀なくされました。 その後も馬超は、蜀漢に仕え続けましたが、西暦222年には再び反乱を起こしました。しかし、この反乱も劉備によって鎮圧され、馬超は再び降伏しました。その後、馬超は蜀漢に仕え続けましたが、西暦223年に病死しました。 結局、馬超の反乱は成功せず、彼は劉備に服従することを余儀なくされました。 AIにすごく反乱するやつだと思われてるのは間違いない
187 23/03/05(日)03:16:28 No.1032997508
AI君は馬超が蜀に乱を起こしたと信じてると知ってるの世界で俺らだけだと思う
188 23/03/05(日)03:16:58 No.1032997546
馬超はなぜ孔明に斬られることになったのですか 馬超が孔明に斬られるきっかけは、馬超が反乱を起こし、孔明が蜀漢の命を受けて馬超討伐のために派遣されたことです。 反乱を起こした馬超は、長坂の戦いで蜀漢軍に敗れ、孔明に捕らえられました。その後、孔明は馬超を説得して降伏を促しましたが、馬超は拒否し、孔明との決戦を挑みました。孔明は、馬超と一騎討ちをし、馬超を斬りました。 ただし、歴史的には、馬超が実際に孔明に斬られたかどうかは諸説あり、定かではありません。また、小説や演劇などの創作物においては、馬超と孔明の壮絶な一騎討ちが描かれ、その結果、馬超が孔明に斬られるという展開がよく用いられます。
189 23/03/05(日)03:17:09 No.1032997566
反乱降伏ループで蜀に仕え続けてるって面の皮ヤバいだろAI馬超…
190 23/03/05(日)03:17:24 No.1032997590
馬超の乱 とか起こった世界線のAI使ってる?
191 23/03/05(日)03:17:39 No.1032997620
映画泣いて馬謖を斬るのストーリーをおしえてください 「泣いて馬謖を斬る」というタイトルの映画には、複数の作品が存在するため、どの作品のストーリーをお伝えすればよいか不明確です。以下に、代表的な「泣いて馬謖を斬る」というタイトルの映画のストーリーを紹介します。 「泣いて馬謖を斬る」は、中国の歴史小説「三国志演義」に登場する逸話をベースにしたフィクション作品です。映画は、中国の三国時代に、蜀漢の軍師である馬謖が主人公となっています。 物語は、馬謖が蜀漢の軍師になる前の若き日から始まります。馬謖は、武勇に優れた将軍であったが、冷静な判断力に欠ける部分もありました。そんな馬謖が、蜀漢の丞相・諸葛亮に見出され、軍師に任命されます。
192 23/03/05(日)03:17:43 No.1032997628
馬超の乱が成功するパターンはないのか
193 23/03/05(日)03:17:48 No.1032997635
>反乱を起こした馬超は、長坂の戦いで蜀漢軍に敗れ、孔明に捕らえられました。その後、孔明は馬超を説得して降伏を促しましたが、馬超は拒否し、孔明との決戦を挑みました。孔明は、馬超と一騎討ちをし、馬超を斬りました。 孔明そんなキャラだったかなぁ!?
194 23/03/05(日)03:17:52 No.1032997642
ナチュラルに武闘派になってる孔明もヤバい
195 23/03/05(日)03:18:01 No.1032997653
馬謖は、蜀漢の将軍として、数々の戦いで活躍します。しかし、彼の独断的な行動が原因で、部下たちや蜀漢の重臣たちから疎まれるようになっていきます。馬謖は、その中でも北伐を行い、大勢の将兵を失いながらも、辛くも勝利を収めます。 しかし、その後、馬謖は重臣たちに陰で貶められ、諸葛亮によって裁判にかけられます。裁判で馬謖は、自分が独断的に行動したことを反省し、自らの命を助けるために涙ながらに懇願します。しかし、裁判官は、馬謖の行動が将兵たちを死に追いやったことを重く見て、死刑判決を下します。 最後の場面で、劉禅(蜀漢の最後の皇帝)が泣きながら、自らの手で馬謖を斬ります。劉禅は、馬謖の処刑を決断したことが悔やまれ、涙を流して謝罪します。このシーンが、「泣いて馬謖を斬る」というタイトルの由来となっています。 裏切らなかったぞ
196 23/03/05(日)03:18:04 No.1032997655
斬られたのか病死なのかどっちなんだ…
197 23/03/05(日)03:18:45 No.1032997712
1人で馬超陣営に乗りこんで討ち取ったり一騎打ちで倒したり孔明もなんかおかしなことになってる
198 23/03/05(日)03:19:15 No.1032997755
>裏切らなかったぞ 馬謖は忠実だからな 馬超と違って
199 23/03/05(日)03:19:20 No.1032997768
なんかAIくん孔明のことビーム打つ人と勘違いしてない?
200 23/03/05(日)03:19:33 No.1032997787
>馬超の乱が成功するパターンはないのか 馬超の乱は、中国の後漢時代に発生した武将・馬超が起こした反乱です。歴史的には、馬超の反乱は失敗に終わりました。 ただし、もし仮に馬超の乱が成功するパターンがあるとすれば、以下のような条件が揃う必要があります。 馬超がより多くの支援を得ることができる:馬超の反乱は、蜀漢の劉備に味方したり、漢中地域の他の勢力を巻き込むことができなかったため、支援を受けることができませんでした。もし馬超が、他の勢力と同盟を結び、より多くの支援を得ることができれば、成功の可能性が高まるでしょう。 周囲の政治状況が有利になる:馬超の反乱は、後漢時代の政治的混乱期に起こりました。もし周囲の政治状況が有利になり、反乱によって生じる混乱や不安が少なくなれば、成功の可能性が高まるでしょう。 組織的な戦略がある:馬超の反乱は、決定的な戦略や組織的な計画が不足していたとされています。もし馬超がより明確な戦略を持ち、より組織的に反乱を進めることができれば、成功の可能性が高まるでしょう。
201 23/03/05(日)03:19:36 No.1032997794
諸葛亮の「泣いて馬超を何度も斬る」とは、三国時代の中国の歴史書である『三国志』に記載されている有名な逸話の一つです。 当時、蜀の諸葛亮は北伐を行い、馬超率いる羌族の軍勢と戦っていました。その中で、馬超は蜀の将軍である黄忠を討ち取り、さらに蜀の前線基地である漢中を攻め落とすなど、蜀にとって脅威となっていました。 そこで、諸葛亮は馬超を討つために出陣し、馬超と激戦を繰り広げました。しかし、馬超は腕っぷしも強く、武芸も優れており、諸葛亮が思うように勝利することはできませんでした。 そこで、諸葛亮は泣きながら馬超に向かって、自分の志を語りました。そして、「この手で斬る必要があるならば、何度でも斬ります。」と言い、ついに馬超を討ち取りました。 この逸話は、諸葛亮の勇気と決断力、そして彼が持つ深い愛国心が表現されたものとして、後世に多くの人々に愛されることとなりました。
202 23/03/05(日)03:19:38 No.1032997800
反旗を翻した馬超武闘派諸葛亮に斬られて泣くは有名エピソードだよね
203 23/03/05(日)03:20:17 No.1032997858
孔明が物理的に強すぎる
204 23/03/05(日)03:20:38 No.1032997893
>当時、蜀の諸葛亮は北伐を行い、馬超率いる羌族の軍勢と戦っていました。その中で、馬超は蜀の将軍である黄忠を討ち取り、さらに蜀の前線基地である漢中を攻め落とすなど、蜀にとって脅威となっていました。 黄忠やられてるー!
205 23/03/05(日)03:20:50 No.1032997908
>そこで、諸葛亮は馬超を討つために出陣し、馬超と激戦を繰り広げました。しかし、馬超は腕っぷしも強く、武芸も優れており、諸葛亮が思うように勝利することはできませんでした。 >そこで、諸葛亮は泣きながら馬超に向かって、自分の志を語りました。そして、「この手で斬る必要があるならば、何度でも斬ります。」と言い、ついに馬超を討ち取りました。 コイツやりたい放題すぎる…
206 23/03/05(日)03:21:02 No.1032997924
言葉の洪水過ぎて深夜に読むには中々辛いスレだな!
207 23/03/05(日)03:21:04 No.1032997926
諸葛亮強すぎるんだけどパリピ孔明かなんかか?
208 23/03/05(日)03:21:22 No.1032997957
馬超が裏切り者になって孔明がすぐ人を斬りたがる異常者になってる…
209 23/03/05(日)03:21:37 No.1032997981
>諸葛亮強すぎるんだけどパリピ孔明かなんかか? 演義の孔明ならこれくらいはできる
210 23/03/05(日)03:21:47 No.1032997990
黄忠<馬超<諸葛亮
211 23/03/05(日)03:21:56 No.1032998000
>馬超が裏切り者になって孔明がすぐ人を斬りたがる異常者になってる… >このエピソードは、諸葛亮の人柄と優れた謀略家としての能力、そして彼の慈悲深い面を表現するものとして有名です。
212 23/03/05(日)03:22:05 No.1032998008
斬られそうになった馬超、諸葛亮に泣いて許しを乞う。この史実について詳しく教えてください。 馬超が諸葛亮に泣いて許しを乞うエピソードは、三国時代の中国の歴史書『三国志』に記述されています。 馬超は、劉備の配下として戦い、その武勇と優れた将才から「西涼の虎」と呼ばれるほどでした。しかし、後に劉備と袂を分かち、曹操に仕えるようになりました。 曹操が死去した後、馬超は反乱を起こし、自らを西涼の王と称しました。しかし、諸葛亮率いる蜀漢軍に敗れ、馬超は投降した後、諸葛亮に対して「私の配下を虐殺し、私の父親を殺したことを許してください。私はあなたの下で働きたいと思います」と泣きながら許しを請いました。 諸葛亮は、馬超の謝罪を受け入れ、彼を許し、蜀漢の将として仕えるように説得しました。馬超はその後、蜀漢のために戦い、功績を挙げました。 このエピソードは、馬超の忠誠心や諸葛亮の寛大さを表しており、後世に多くの文学や戯曲で取り上げられるなど、広く知られています。 うーn
213 23/03/05(日)03:23:24 No.1032998094
>馬超の忠誠心 ?
214 23/03/05(日)03:23:34 No.1032998112
AI孔明はちょっと詰まったらもういい私が出るで全部薙ぎ倒してくれるから安心感がすごい
215 23/03/05(日)03:24:06 No.1032998154
>馬超は、劉備の配下として戦い、その武勇と優れた将才から「西涼の虎」と呼ばれるほどでした。しかし、後に劉備と袂を分かち、曹操に仕えるようになりました。 もう前提条件と言わんばかりに劉備を裏切ってるじゃん
216 23/03/05(日)03:24:18 No.1032998174
今年一番笑った
217 23/03/05(日)03:24:24 No.1032998180
>後に劉備と袂を分かち、 どうしてもこれが譲れないんだな
218 23/03/05(日)03:24:35 No.1032998196
>もう前提条件と言わんばかりに劉備を裏切ってるじゃん 西涼の王にならないといけないからな…
219 23/03/05(日)03:24:57 No.1032998223
「孔明泣いて馬超と劉禅を斬る」とは、三国時代の中国の歴史において、蜀漢の著名な戦略家・諸葛亮(字は孔明)が、馬超と劉禅を斬ったという故事です。 物語によれば、蜀漢が滅亡寸前の危機に陥った時、諸葛亮は馬超と劉禅が裏で繋がっていることを知りました。馬超はかつて蜀漢に仕えていた将軍で、後に離反し、反乱を起こしました。劉禅は蜀漢の最後の皇帝で、蜀漢が滅亡する原因となったとされています。 諸葛亮は馬超と劉禅を呼び出し、事情を話し、彼らに対して自決を求めました。馬超は最初は抵抗しましたが、最終的に自決を決意し、劉禅も同様に自決しようとしました。しかし、劉禅は怖気づき、泣きながら諸葛亮に助けを求めました。 この状況に諸葛亮は深く嘆息し、泣き出しました。しかし、彼は蜀漢を守るために断腸の思いで、最終的には馬超と劉禅を斬ったとされています。この物語は、諸葛亮が国家のために自己犠牲を厭わなかったことを表しており、多くの中国人にとって、忠義や勇気の象徴とされています。
220 23/03/05(日)03:25:29 No.1032998261
この馬超って奴はシャアやアスラン並に気軽に裏切るな
221 23/03/05(日)03:25:41 No.1032998278
馬超と諸葛亮は戦ったらどっちが強いですか? 馬超と諸葛亮は、中国の三国時代の歴史上の人物であり、馬超は魏の将軍であり、諸葛亮は蜀の丞相でした。 戦闘能力という点で言えば、馬超は優れた武将であり、戦略的な才能も持ち合わせていました。一方、諸葛亮は、戦略的な天才であり、数多くの戦争を指導して勝利に導いたことで知られています。ただし、諸葛亮自身は戦いに直接参加することは少なかったとされています。 つまり、戦闘能力のみを比較すると馬超が優れていると言えますが、戦略的な才能や戦争指導力を含めた場合は、諸葛亮の方が優れていると言えます。 しかしながら、馬超と諸葛亮は時代が異なる人物であり、実際に戦った場面はありません。そのため、彼らが実際に戦った場合、どちらが勝利するかは分かりません。
222 23/03/05(日)03:26:03 No.1032998309
馬超と劉備の関係を教えてください 馬超と劉備は、三国時代の中国における群雄の一人である劉備が、蜀漢の創始者である前、馬超が従属していた張魯の部将として出会いました。 当初は劉備と馬超は同盟関係にあり、劉備が蜀漢を建国するために出兵するときには、馬超もその軍に参加していました。しかし、劉備が蜀漢を建国すると、馬超はそれに反発し、自立を宣言しました。このため、劉備と馬超は敵対することになりました。 その後、馬超は曹操に投降し、曹操の命を受けて劉備を攻撃しました。しかし、後に再び劉備に降伏しているため、馬超と劉備の関係は複雑なものとなっています。
223 23/03/05(日)03:26:19 No.1032998335
>しかしながら、馬超と諸葛亮は時代が異なる人物であり、実際に戦った場面はありません。そのため、彼らが実際に戦った場合、どちらが勝利するかは分かりません。 散々斬っておいてこの言い草である
224 23/03/05(日)03:26:25 No.1032998347
>その後、馬超は曹操に投降し、曹操の命を受けて劉備を攻撃しました。しかし、後に再び劉備に降伏しているため、馬超と劉備の関係は複雑なものとなっています。 こいつ…
225 23/03/05(日)03:26:53 No.1032998386
>その後、馬超は曹操に投降し、曹操の命を受けて劉備を攻撃しました。しかし、後に再び劉備に降伏しているため、馬超と劉備の関係は複雑なものとなっています。 コウモリみたいなやつだな…
226 23/03/05(日)03:27:09 No.1032998400
AI馬超もうこれ頭呂布だろ
227 23/03/05(日)03:27:27 No.1032998432
実際の歴史では馬超の記述が少ないからAIくんが好き勝手に盛れるんだろうな
228 23/03/05(日)03:27:30 No.1032998438
馬超は魏の将軍! みんな知っているね?
229 23/03/05(日)03:27:53 No.1032998474
劉備もこんなやつ仲間にしない方がいいと思う
230 23/03/05(日)03:28:46 No.1032998545
>劉備もこんなやつ仲間にしない方がいいと思う 人材足りないからな…
231 23/03/05(日)03:29:13 No.1032998597
>実際の歴史では馬超の記述が少ないからAIくんが好き勝手に盛れるんだろうな 記述あっても好き勝手に盛ってるだろこれ!
232 23/03/05(日)03:29:15 No.1032998600
そもそもAIのなかでは劉備はなんで馬超を配下にしようとしてるのか
233 23/03/05(日)03:29:47 No.1032998646
馬超が蜀に対して起こした反乱を小説風に簡潔に描写してください。 馬超は蜀漢の政治的混乱に危機感を抱き、自らが帝位に就くことを目論んで反乱を起こした。彼は魏延を説得し、共に反乱軍を結成し、成都を占領した。馬超は新たな皇帝として即位し、賢明な政治を行ったが、魏延の裏切りで反乱は失敗に終わった。
234 23/03/05(日)03:30:18 No.1032998698
馬超と魏の関係について教えてください 馬超は、もともと魏の将軍でした。しかし、父の馬融が宦官と対立し、事件の余波で処刑されたため、馬超は魏に対して反乱を起こし、その後、羌族の支配者である韓遂や、張魯らと結んで、独自の勢力を築きました。 馬超が反乱を起こした時期は、曹操が魏の中央政権を握っていた時期であり、曹操は馬超の反乱を鎮圧するために何度も軍を派遣していました。しかし、馬超は強い抵抗を示し、何度も曹操軍を撃破しました。その後、曹操が北方の異民族に対して出兵した隙をついて、馬超は張魯とともに蜀に帰順し、劉備と協力して曹操と戦いました。 しかし、馬超は孔明との戦いで敗北し、その後、再び劉備に反旗を翻し、曹操に降伏しました。このように、馬超は複数の勢力を渡り歩き、その都度、独自の勢力を築こうとしていたことが分かります。
235 23/03/05(日)03:30:26 No.1032998714
>魏延の裏切りで反乱は失敗に終わった。 この野郎!
236 23/03/05(日)03:31:03 No.1032998774
フルアーマー馬超とはどんな武将でしょう? フルアーマー馬超(ふるあーまー ばちょう)は、三国時代の中国で活躍した武将の一人です。彼は、騎射や槍術に優れ、勇猛果敢で知られています。 馬超は、劉備配下の武将として、荊州や漢中の戦いなどで活躍しました。特に、赤壁の戦いで、孫権・劉備連合軍に加わり、曹操の軍勢を破る功績を挙げました。 その後、馬超は劉備と袂を分かち、魏に対する反乱を起こしましたが、敗北して散り散りになりました。この時、馬超はフルアーマーと呼ばれる特徴的な鎧を身に着けていたと言われています。 フルアーマー馬超は、彼の勇敢な戦いぶりと、独特の鎧姿が人気を博し、多くの小説や漫画、ゲームなどにも登場するようになりました。 やっぱり裏切るんだよなぁ
237 23/03/05(日)03:31:25 No.1032998812
馬超が蜀漢に反旗を翻した理由について教えてください