虹裏img歴史資料館

ここでは虹裏imgのかなり古い過去ログを閲覧することができます。新しいログはこちらにあります

23/02/05(日)17:16:46 神君徳... のスレッド詳細

削除依頼やバグ報告は メールフォーム にお願いします。個人情報、名誉毀損、侵害等については積極的に削除しますので、 メールフォーム より該当URLをご連絡いただけると助かります。

画像ファイル名:1675585006622.jpg 23/02/05(日)17:16:46 No.1023238855

神君徳川家康公は源頼朝公を心の師と仰ぎ、『吾妻鑑』の愛読者とされています。 その中でも特にリスペクトしたエピソードを一つ。 『吾妻鑑』治承四年(1180)八月小、『駿河土産』巻の六、『武功雑記』巻一、『平治物語』より抜粋 治承四年(1180)8月28日。石橋山の合戦に敗れた後、頼朝公は真鶴から船に乗り安房の国へ向かいました。この時、土肥次郎実平が土肥に領地のある貞恒という者に命じて小船を用意させました。 また実平の息子(または甥)である年少の土肥弥太郎遠平を乗船させず、伝言のために御台所の北条政子の元へ走らせたとされます。

1 23/02/05(日)17:17:42 No.1023239219

ただしこの話には異説が古くからあります。 頼朝公は「8騎は縁起が悪いので7騎にせよ。父義朝が落ち延びた際、上総介広常や三浦義澄、熊谷直実ら20人余りの配下にヒマを出した。残ったのは我や悪源太義平、平賀義信ふくめ8騎だった。」と土肥実平に命じたそうです。 土肥実平は泣く泣く息子に下船するよう命じました。これが世に伝わる七騎落ちとされます。

2 23/02/05(日)17:18:09 No.1023239402

後年家康公は、側近らにこの七騎落ちの話について次のように評されました。 「縁起が悪いとはいえ供を減らすとは異なこと。大切な時には一人でも重宝である。」と言われたそうです。 なお梶原景時が「天下を取った時には私を執権になされよ。」と敗走中の頼朝公に申し出た際、頼朝公が「私心を出したら即座に首を斬る。」と答えた言い伝えには、家康公は器の大きさを褒めたたえたそうです。

3 23/02/05(日)17:22:39 No.1023241271

8も末広がりで縁起が良いだろうがこのすずむし

4 23/02/05(日)17:23:36 No.1023241707

うーんやっぱり儂松潤そっくりじゃのお

5 23/02/05(日)17:23:37 No.1023241713

少ない戦力を更に減らすのは良いのかこれ

6 23/02/05(日)17:26:18 No.1023242919

>うーんやっぱり儂松潤そっくりじゃのお 三河の地にスケ殿降臨させたらイカンでしょ

7 23/02/05(日)17:28:15 No.1023243683

>>うーんやっぱり儂松潤そっくりじゃのお >三河の地にスケ殿降臨させたらイカンでしょ (粛清される三河武士)

8 23/02/05(日)17:55:47 No.1023253946

また頼朝公が近習の者に、「我が天下を取ったらお前を取立ててやろう。」と言われたのに、皮肉っぽく笑い返されたという言い伝えもあります。 『武功雑記』巻一より 頼朝公が天下を掌握した時、近習の者が全く出世できない事を申し出ると、頼朝公は次のように言われました。 「お前はかつて我を笑ったことを忘れたのか」と。それに対し近習は答えました。 「忘れていません。 あの頃は頼朝様が天下をお取りになるなど決して無いと思ったので笑ったものです。  それ程頼もしくも思わなかった主君に私は今日まで崇めて奉公してきたのですから。」 申し分がもっともであるとして、頼朝公は彼を取立てたそうです。

9 23/02/05(日)18:03:32 No.1023256784

>申し分がもっともであるとして、頼朝公は彼を取立てたそうです。 覚えてる方も覚えてる方だがこのレス返せる方も強すぎる

10 23/02/05(日)18:18:31 No.1023262121

18騎もいれば上皇様の軍勢相手でもいけるいける

↑Top